結婚相談所の登録者調書 -2-

「あの、カサネさん」

「ふぁい!?」


 驚きました。

 驚いて変な声が出てしまいました。


 通常、我々相談員は、相談者様からは「相談員さん」もしくはファミリーネームで呼ばれるものです。

 私の場合は「エマーソンさん」と…………あれ?


「あの、私の名前を覚えているのですか?」


 私が名乗ったのは、トラキチさんが記憶の混在を起こされる前だったはずなのですが……


「いえ、名札を……」


 と、トラキチさんはご自身の胸元を指さして答えます。

 女性の胸元を不躾に指ささない点は好感が持てます。

 しかしなるほど、私の名札を見て…………


 視線を落とすと、なだらかな自身の胸元がはっきりと見えました。

 ……いえ、別に気にはしていないのですが、当相談所の所長がしつこいくらいに「まだ育たない、まだ育たない」と小馬鹿にしてくるので、少し……ほんの少しだけ「もう少し育てばいいのに」とは思っていますが、それだけです。


 しかし、……なるほど。

 急に名前を呼ばれるというのは、確かに少しドキッとしますね。

 声が上擦る気持ちが理解できました。


 とはいえ……


「トラキチさん」

「はい」

「社交的であることはよいことであると思いますが、ふとしたきっかけで思いも寄らない誤解を与えかねませんので、気軽に女性のファーストネームを口にすることはお勧めいたしませんよ」


 中には、相談員と仲良く話していたという理由で激しいジェラシーの炎に焼かれて破局されたカップルもおられましたので。

 ……我々が相談者様を名前で呼ぶのは、親近感を覚えていただいて、より相応しいお相手を見つけるためであって、だからといって相談者様が我々相談員に親しく接する必要はないのです。我々の情報を、相談者様が知る必要はないのですから。


 ……まぁ、親しくしてはいけないというルールもありませんが。


「ファースト…………あっ! そうか!」


 ガタン! と、音を鳴らし、トラキチさんが立ち上がりました。

 そして、非常に焦ったような表情で私を見下ろして、少し泣きそうな顔で頭を下げてこられました。


「すみません!」


 また謝った。


「僕、つい日本にいるつもりで……そうですよね、外国だと名前が先に来るんですよね!?」


 外国……といいますか、異世界ですけれど。


「僕、日本から出たことがなくて、ハリウッド映画とかもよく分からなくて、ブラッドとかピットとかどっちが名前かよく分からなくて、だから、あの……カサネさんって、名字かと思ってました」


 腰を曲げて頭を下げたまま、ちらりと視線だけが私を見ました。

 こちらの顔色を窺うように。


 こういう仕事をしていると、トラキチさんのような方にはよく出会います。

 つまり、姓と名が逆に思えて勘違いされる方が。

 それ自体は恥じることでもなんでもなく、そういうものなのだと学習すればいいだけのことで、実際、姓名と名姓が入り交じるこの『世界』において、百発百中で名前を理解するというのは困難なことなのです。私でさえもたまに間違えます。

 だから、全然気にする必要はないのですが……


「あの、気を悪くされたのでしたら謝ります。申し訳ありませんでした!」


 この人は、どうしてこんなにも懸命に謝罪を述べるのでしょうか。

 思わず抱きしめて「よしよし」と頭を撫でてあげたくなるではないですか。「怖くない、怖くないよ」と。



『備考:仕草がとても可愛い

    飼いたい』



 …………はっ!?



『備考:仕草がとても可愛い』



 消しました。

 思わず書いてしまいましたが、綺麗さっぱり消し去ってやりました。

 仕方ありません。私の部屋はペット禁止なのですから。


「それでは、あの……エマーソンさんとお呼びした方が……」

「いえ。カサネで構いませんよ。久しく呼ばれていませんでしたので、呼んでいただけて嬉しかったですし」

「そ、そう……ですか?」


 少々押しつけがましかったかとも思ったのですが、トラキチさんはどこかほっとしたような表情を見せ、頬を緩めて優しい笑みを向けてくださいました。


「では、これからよろしくお願いしますね。カサネさん」


 あぁ……

 なんなのでしょう、この感覚は。

 五つも年上の男性だというのに…………可愛い、いや、愛おしい。


 美味しいご飯を与え続けたい。


「それで、あの……一つ、お願いしていいですか?」


 椅子に座り直しながら、トラキチさんが私に尋ねます。

 そういえば、名前を呼ばれ驚いて有耶無耶になりましたが、トラキチさんは私に何かを言おうとされていたのでした。


「なんでしょうか?」

「砂糖をいただけますか?」

「さ、とう……ですか?」

「はい。あの……ちょっとだけ、苦いので」


 ハーブティーに、砂糖?

 え?

 ハーブティーに砂糖を入れるのですか?


 それは、なんというか、まるで……焼いたお肉にホイップクリームを載せるような…………合う、のでしょうか?


「あれ……変、ですか?」

「え?」


 私はよほどおかしな表情をしてしまったのでしょう。

 トラキチさんが恐る恐るそのようなことを聞いてこられました。


「え、えぇ、まぁ。あまり聞きませんね。ハーブティーにお砂糖を入れるというのは。けれど、決して変だとかおかしいということはないと思います」


 私の周りには一人もいませんけれど。

 生きてきて、一度も出会ったことはないですけれど。

 この『世界』のハーブティーは、あっさりとした味の飲みやすいお茶で、そのまま飲むのが常識ですけれど、決して砂糖を入れることがイケナイというわけでは、きっとない、と、思います。


「アレかなぁ……ウチの父さんが麦茶に砂糖入れて飲んでた、みたいな感覚なのかなぁ? アレはさすがに『えっ!? なんで!?』って思ったしなぁ……でも、このハーブティー、僕にとっては紅茶みたいなものなんだよなぁ……」


 なんだかものすごく悩まれています。

 いいのです。悩まなくて。

 ハーブティーにルールなどないのですから。飲みたいように飲めばいいのです。

 ただ、人前でやると、ちょっと遠巻きにひそひそと噂話をされかねませんが。


「お砂糖、お持ちしますね」


 トラキチさんはこの『世界』に来て間もない方です。

 まずはこの『世界』に慣れることが先決。そのためにも、なるべく過ごしやすい空間にいることが望ましいのです。

 お砂糖くらいお持ちしましょう。



 私は、絶対入れませんけれども。



 三つ並んだカウンターの一番右。私の担当する窓口を離れ、給湯室へと向かいます。

 コーヒーがしまわれている棚の中に四角いお砂糖が入ったシュガーポットが置かれており、それを持ってカウンターへ戻ろうかとした時――


「ぅわあぁあああ!?」


 と、トラキチさんの悲鳴が聞こえました。

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