第6話 厳冬

 左腕には長い爪痕が、二本残されていた。

 虎が大きく、僕の腕が細かったから二本で済んだのかもしれないが、爪痕は深く、血がボタボタと溢れて来ている。


 ダウンジャケットを着ていたので、傷口には羽毛がへばり付いていた。

 湧き水を引き込んだ洗い場で、羽毛や溢れた血を洗い流しても、傷の底が見えない。


 白く見えるのは、もしかすると骨なのだろうか。

 傷口よりも心臓に近い所を蔓で縛り、枝で捻って止血を試みたが思わしくない。


 痛みに耐えながら、傷口が塞がるように、右手で押さえる以外の方法が思い浮かばなかった。


「きゅーん……きゅーん……」


 フィヤが心配そうに僕の周りをグルグルと歩き回っているが、それを構ってやる余裕もない。

 それでも痛みに耐えながらジッとしていると少しずつ出血が減り、やがて止まった。


 出血は止まったのが、今度は猛烈な寒気が襲ってきた。

 焚き火は……消えていないが、扉の穴から外気が入り込んでいる。


 いつの間にか日が傾いて、夕闇が迫っているようだ。

 傷口にタオルを巻き付けて、解けないように蔓を巻き、焚き火に大きな薪を追加した。


 朝までは持たないかもしれないが、寒気と一緒に眠気が襲って来ていて、起きていられそうもない。


「フィヤ……フィヤ……寒い……」

「きゅーん……きゅーん……」


 左袖がボロボロになったダウンジャケットを羽織り、フィヤを抱えて落ち葉のベッドに潜り込んだ所で気を失ってしまった。


 どれぐらい時間が経過したのか分からないが、フィヤに顔を舐められて意識を取り戻し、また気絶するという事を繰り返していたような気がする。

 何度目かの覚醒の後、猛烈な空腹を感じてフラフラと起き上がり、ヌシの燻製を手に取った。


 川のヌシの生命力を口にすれば、生き残れると思ったのかもしれない。

 硬い燻製を噛み締める度に、腕にも鈍い痛みが走る。


 フィアにもヌシの燻製を与えて、空腹が収まったところでまた眠りに落ちた。

 次に目覚めた時には、いくらか意識がハッキリとしてきた。


 左腕はジクジクとした痛みを発して、熱を持っているように感じる。

 扉の穴から外を覗くと、白い毛並みが見えた。


 予備の銛を持って来て、突き刺してみたが動かない。

 どうやら虎は死んだようだ。


 煙を抜くための穴から手を伸ばし、ドクダミに似た葉を摘み取った。

 土器に葉と少量の水を加えて、木の棒で磨り潰す。


 ドクダミには、殺菌作用や止血作用があると父さんに習った。

 傷口を覆っていたタオルを剥がしていくが、タオルと言うよりも、どす黒い血の塊のように見えた。


「うぐぅぅぅ……」

「きゅーん……きゅーん……」


 タオルを剥がすと、嫌な臭いがして、またジクジクと血が滲んでくる。

 そこに磨り潰した葉っぱを乗せると、焼けるような痛みが走った。


「あがぁぁぁぁ……」

「きゅーん……きゃん、きゃん、きゃん!」


 こんな治療もどきが正しいのか、間違っているのか分からないが、他に方法は考え付かなかった。

 傷口は、ジンジンとした痛みを発し続けていたが、暫くすると和らいでいできた。


 ドクダミもどきの猛烈な臭いのせいなのか、傷口から発していた嫌な臭いも感じられない。

 焚き火は、すっかり消えてしまってしたが、左腕がこんな状態なので、火を起こす事も出来ない。


 またヌシの燻製をフィヤと一緒に齧って、落ち葉のベッドに潜り込んで眠りに付いた。

 それから数日間は、殆ど同じ様に過ごした。


 腕の傷は、どうにか化膿せずに済んだようだが、表面は塞がって見えるものの、少し動かすだけで痛みが走り、まだ中までは治っていないようだ。

 虎が壊した扉の穴から外を覗くと、日が出ているようだ。


 苦労して、片手で扉を上げると、入り口は半分雪に埋もれていた。

 そして、入口に積もった雪で、虎も半分埋まっていた。


 虎の死骸を跨いで外に出て、虫眼鏡を使って火種を作り、久しぶりに焚き火をして、家の中を暖めた。

 火の有り難さを身をもって味わっているのは、フィヤも同じのようだ。


 焚き火の前でだらしなく寝転んで、お腹を撫でろと要求している。


「きゅーん……きゅーん……」

「はいはい、分かったよ、焚き火が無い間、フィヤには暖めてもらったからね……」


 怪我をして寝込んでいる間、もし自分一人だったらと考えたら怖くなった。

 フィヤに暖めてもらっていなかったら、たぶん死んでいたと思う。


 この世界に来て、家を作り、食料を確保し、自分一人でも生きていけるじゃないかと、少し思い上がっていたけど、とてもじゃないが一人では生きていけない。

 もし自分が病気になったら、水を飲みに行く事も出来ないぐらいに衰弱したら、一人だったら待っているのは死だ。


 雪が解けて、春になったら、人が暮らしていないか探しに行こうと心に決めた。

 とは言っても、まだ冬は始まったばかりで、やらなきゃいけない事が沢山ある。


 まずは何と言っても扉の修理だ。

 虎に壊されて、バラバラになる寸前だ。


 折られてしまった中央の部分を、薪の中から使えそうな木を選んで取替え、組み直した。

 左腕に力が入らないので、思ったように作業が進まず、ようやく直し終えた頃には日が暮れていた。


 翌日からは、虎の死骸の片付けに取り掛かった。

 罠の丸太を退かして罠を仕掛け直すのに、また一日掛かってしまった。


 安全の為のつっかえ棒は、家の中から外せるようにしておく。

 あまり考えたくはないが、また別の虎に襲われる可能性は考えておかないといけない。


 扉や罠の修理は思っていた以上に大変だったが、虎の死骸の片付けは更に大仕事だった。

 とにかく体が大きくて重たいので、ひょいっと移動させられない。


 蔓を何本も束ねて、丈夫なロープ状にして、体全体で引っ張っても、僅かに移動するだけだ。

 前脚を引っ張り、少し移動したら後脚を引っ張り、少しずつ、少しずつ移動させてようやく家の入口からどかした。


 家から離れた場所まで移動させ、今度は解体に取り掛かった。

 食べてみようかという気が沸いて来て、後脚を苦労して切り離し、皮を剥がして、腿の肉を串焼きにしてみた。


「きゃぅぅ、きゃぅぅ、きゃん、きゃん、きゃん!」

「待て! お預け! まだ焼けてないから、駄目!」

「きゃぅぅ……きゃぅぅ……」


 フィヤを叱りながらも、肉の焼ける匂いに、自分も涎がこぼれそうになっている。

 程良くミディアムになった頃合で、少し不安を感じながらも、思い切ってガブっと齧り付いてみた。


「ん? うん、うん……」

「きゃう、きゃう、きゃん、きゃん!」

「うーん……硬いし、そんなに美味くは無いのかな……はいよ」

「きゃん、きゃん……はぐはぐ、はぐぅぅ……?」


 フィヤにも焼いた虎肉をあげたが、何だか微妙な顔をしている。

 ずっと魚生活だったので、肉の味に戸惑っているようだ。


 思っていた程はないが独特の臭みがあり、あまり美味しいものではない。

 それでも、貴重な蛋白源なので、もう一本の後脚も切り落して、燻して干し肉にする。


 雪に埋まっていた後ろ半分は大丈夫そうだが、前脚の方は少し腐敗が進んでいる気がするので、後脚二本だけ切り取って残りは川に流す事にした。

 家の近くに死骸が残っていれば、別の肉食獣が姿を現す可能性が高まってしまう。


 川原まで苦労して引き摺って行き、川の近くまで来た所で、お腹をカッターで裂いた。

 目的は、虎の皮下脂肪だ。


 真っ白な脂肪を取り出して、土器の鍋に入れておく。

 虎は思った以上の脂肪を蓄えていて、土器で三杯以上も取れた。


 入りきらなくなった分は、家の入口近くに雪で作った容器に入れておく。

 脂肪の入った土器に少し水を加えて焚き火に掛けて、溶かして油を取り出した。


 油は、土器の器に移して、乾いた蔓をほぐして捻った芯を浸して固め、蝋燭モドキをいくつも作った。

 夜の間は、これに火を灯して、明かりにする。


 虎の死骸を何とか片付けたら、左腕の痛みが引くまで、家に籠もってフィヤと遊んで暮らした。

 時間はたっぷりあるので、声だけやハンドサインだけでフィヤを動かす練習を繰り返した。


 虎は今いちだったけど、鹿ならばもっと美味しいかもしれない。

 それに、仕留めた直後なら、レバーとか内臓も食べられそうだ。


 取らぬタヌキの何とやらではないけど、解体用の石包丁を作ってみたり、どんな罠を仕掛けようかと思いを巡らせていると案外退屈しないで済んだ。

 日本に居た頃には、ゲーム無しじゃ一日だって暮らせなかったのに、変われば変わるものだ。


 虎の肉を食べたからではないだろうが、またフィヤが大きくなった気がする。

 最初の頃は、膝の上にスッポリと収まっていたのに、今では膝に乗られると重たいと感じるほどだ。


 抱えて眠るのには温かくて良いのだが、大きくなれば、その分食べる量も増えるので食料が心配になる。


「フィヤも、僕と同じように、別の世界から迷い込んで来たのか?」

「きゃう、きゃう……」

「それとも、元々この世界に住んでいたのかな?」

「きゃう、きゃう……きゃん」


 面と向かって訊ねてみても、フィヤに言葉が通じる訳もなく、顔をペロペロ舐められるばかりだ。

 それにしても、何という犬種なんだろうか。


 顔付きは、ハスキーっぽい感じで、今はまだ縫いぐるみっぽいが、大人になったら精悍な顔付きになりそうだ。

 毛色は燃えるような赤で、場所によって微妙な濃淡がある。


 背中の方が濃くて、お腹の方は少し白っぽい。

 脚が凄く太くて、ガッシリしているので大きく育ちそうだが、まさか虎より大きくなったりしないよな。


 ただの犬には見えないけれど、撫でてとばかりにお腹を見せて寝転ぶ姿は、ただの犬にしか見えない。

 虎の襲撃以後、鹿などの大きな動物は見かけていないが、鳥を見かける事が多くなった。


 ただ、空を飛んでいく姿を見るだけで、手の届く範囲ではない。

 鳥ならば虎よりも美味しいと思うけど、掴まえられなきゃ食べられない。


 腕の痛みが大分引いてきたので、久々に外に出てフィヤと遊ぼうかと思ったのだが、思いの他に雪が深くて身動きが取れない。

 大岩が作る庇のおかげで入口は埋もれずに済んでいるが、積もった雪の深さは、僕の胸ぐらいまである。


 雪だるまを作る要領で、入口付近の雪をどかしたが、進むには雪を掻き分けて進むしかなく、足が潜ってしまうのでカンジキを作る事にした。

 材料は、銛に使っている木の棘と蔓だ。


 この木の棘は、中が空洞になっていて軽いけど、固くて丈夫だ。

 これを縦横に組み合わせて、蔦で縛って、板状にして、足に固定出来るように紐を付けてみた。


 見た目は不恰好だが、これで雪に潜らずに移動出来るはずだ。


「よし、フィヤ、表に出て雪遊びするぞ!」

「きゃぅぅぅ……きゃん!」


 カンジキを作った翌日、フィヤと一緒に表に飛び出したが、結果は惨敗だった。

 確かに何も着けていない時よりは潜らないが、それでも自由自在に歩き回るには程遠い状態だ。


「きゃぅぅぅ……きゃぅぅぅ……きゅーん、きゅーん……」


 勢い良く飛び込んでいったフィヤは、雪にスッポリと埋まって、情けない声を上げている。


「フィヤ……そんな声出しても、もう引っ掛からないよ」

「きゅーん、きゅーん……きゃん、きゃん、きゃん……」

「フィヤ……?」

「きゃぅぅ……きゃぅぅ……きゃん、きゃん、きゃん」


 何を遊んでいるのかと、雪を掻き分け、踏み付けながら進んで行くと、フィヤが新雪に埋もれてもがいていた。


「きゃう、きゃう、きゃう」

「はい、はい、出られなくなったんだね……まったく、お前は自然の中で生きていけそうもないね」

「きゅーん……」


 情けない声を上げて救出されたフィヤだが、その後は、僕の踏み固めた所から、少しずつ外に出て行き、やがて埋もれながらも、もこもこと進む術を身に着けた。

 フィヤと一緒に遊びまわるのは楽しいのだが、遊び終えた後で服を乾かすのが面倒だったりする。


 フィヤは、身体をブルブルっと震わせれば終わりだけど、僕は脱いだ服を焚き火に当てて乾かさないといけない。

 濡れた服を乾かす焚き火があるから大丈夫と言えば大丈夫だが、万一服を焦がしてしまったら替えが無いから困る。


 今は良いとしても、この先、何ヶ月、何年と暮らしていくには、服は切実な問題に思えて来た。

 服を買う店も無いし、作る生地もない。


 現状で、何かそれっぽ物を作るとしたら、蔓を叩いて柔らかくして、細かく編んで布状にするしか無さそうだが、着心地とか凄く悪そうだ。

 そう考えると、虎の皮を取っておけば良かったと思ったが、毛皮を素材として使えるようにする方法が分からない。


 確か、そのままだと固くなったり、腐ってしまうと聞いた事がある。

 腐らず、柔らかくする工程が必要なのだろうが、全く方法が分からない。


 それよりも、人が住んで居ないか探した方が早いような気がする。

 いずれにしても、雪が解けないと身動きが取れそうもない。


 雪の中で、もこもこと移動するフィヤを眺めつつ、早く春にならないか待ち遠しい気分になった。

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