第5話 襲撃

 吹雪の翌朝、戸を開けて外に出てみると、辺りは完全な銀世界に変わっていた。

 川から上がって来る道も完全に雪に埋もれていて、何処を歩いていたのかも分からない。


 足を踏み外しても転落の心配は無いが、気を付けないと石の間に足がはまって転びそだ。

 すっかり雪が気に入っていたフィヤは、喜んで家の外へと飛び出したものの、新雪にスッポリと埋まって姿が見えなくなった。


 雪は一晩で50センチぐらい積もっていて、場所によっては吹き溜まりになって、それ以上の深さがあるようだ。


「きゅーん……きゃん、きゃん、きゅーん……」


 雪に埋まって方向が分からなくなったのか、それとも出られなくなったのか、雪の中から情けない鳴き声が聞こえてくる。


「フィヤ、どうした、出られないのか?」

「きゃん、きゃん、きゅーん……」

「ん? どうしたんだよ……何かあったのか?」


 フィヤがはまり込んだ場所を覗き込んでみると、勢い良くフィヤが飛び出して来た。


「うわぁ……って、フィヤ、騙したな?」

「きゃん、きゃん、きゃん!」


 どうやら遊んでほしくて、隠れて情けない声を上げていたようだ。


「こいつぅ……覚悟は出来てるんだろうなぁ……?」

「きゃうぅぅぅ……きゃん!」


 雪を掛け、雪玉をぶつけ、雪の上を転がり回って、朝から汗だくになって遊んでしまった。

 遊んだ後は、ヌシの燻製を炙って、フィヤと分け合って遅い朝食にした。


 朝食の後は、川に仕掛けた罠を引き上げに行ったのだが、雪が積もってしまって、何処に仕掛けたのか分からなくなってしまった。

 河原にも雪が積もり、気を付けないと雪を踏み抜いて川に落ちそうだ。


 雪が積もっている間、罠を仕掛けるのは難しいだろう。

 それでも、川の水には少しだけ塩分が含まれているので、スープを作るためには使いたい。


 なので、浅瀬を選んで足元を棒で突きながら水汲みに行き、川の端には長い枝を立てておく。

 今日は小雪が舞う程度だが、昨晩のような吹雪になると、この枝も埋もれてしまうかもしれない。


 薪も十分に拾ったつもりだが、無くなると困るので、雪から顔を出している倒木を見付けたら、家の中に立てかけて干しておこう。

 本当は日に当てて乾燥させた方が良いのだろうが、それでも生木を燃やすよりは良いはずだ。


 こちらの世界に来てから、二か月以上経った。

 初めて出会った頃のフィヤは、ひょいっと持ち上げられるぐらいの大きさだったが、今ではヨッコイショッと持ち上げないといけなくなっている。


 でも甘ったれなのは相変わらずで、フィヤが昼寝をしている時に薪を拾いに出かけたりして、僕の姿が見えないと大騒ぎして捜し回った。

 家の外に出て僕を見つけると、まっしぐらに駆け寄って来て、時には『うれしょん』を洩らすほどだ。


 僕にベッタリなのは嫌ではないが、この森で暮らしていくならば、将来的には狩りの手伝いをしてもらいたいので、少しフィヤをトレーニングする事にした。

 まずは基本のお座り、伏せ、待て、ハウスを教えた。


 雪で漁も出来ないので、時間はたっぷりとある。

 フィヤも新しい遊びだと思ったのか、思っていたよりも早く覚えてくれた。


 フィヤの覚えが良いので僕も楽しくなって、今度は牧羊犬のように離れた場所から指示を出して、その指示通りで動けるように教えた。

 最初は、なかなか意図が伝わらず、すんなりと覚えてはくれないけど、声でも手振りでも指示が伝わるように、根気良くトレーニングは続けていくつもりだ。


 フィヤの集中が切れて来たら思いっきり遊んでやって、一緒に昼寝をする、そんな平和な日が続いていた。

 ある日の朝、川に水汲みに行こうと家を出ると、河原に鹿っぽい動物がいた。


 頭には太く弓なりに反った角が二本生えていて、白い毛とこげ茶色の毛が混じっている。

 大きな角を持った一頭と、三分の一ほどの大きさの角を持った三頭、合計四頭の群れのようだ。


「うぅぅぅ……うぅぅぅ……」


 フィヤは、初めて遭遇した動物に警戒心を剥き出しにしていた。


「フィヤ、待て……」

「うぅぅぅ……」


 まだ100メートルほどの距離があるが、鹿の方も僕らの存在は気付いているようだ。

 四頭とも頭を上げて、じっと僕らの方を見詰めている。


 鹿を見つけた時、何とか仕留められないかと真剣に考えたが、手元にあるのは、雪と川の境目を探る棒と土器の鍋だけなので観察に徹した。

 鹿たちは、少しの間僕らの方を眺めていたが、危険は無いと判断したのか、視線を逸らして下流に向かって歩き始めた。


 川原から森に入り、時折木の皮などを食べている。

 暫く鹿たちに付いて行ったが、途中でパッと走り始めて距離を開けられてしまったので、そこで追跡は諦めて家に戻ることにした。


「きゅーん……」


 フィヤも肉が食べたいと思った訳じゃないだろうが、何だか残念そうな顔で首を傾げている。

 きっと僕が凄く残念そうな顔をしているからだろう。


 燻製があるので飢える心配はないが、正直魚ばかりで飽きている。

 出来れば、肉を思いっきり食べたいという気持ちが顔に出ていたのだろう。


 川に水を汲みに戻りながら、動物を仕留める方法を考えた。

 僕の手元にある武器と言えば、木の棘を利用した銛だけだ。


 鹿などの動物を相手に、銛一本で向かって行っても逃げられるだけだろう。

 仕留めるには、何らかの罠を仕掛けて、そこに動物を追い込む必要がありそうだ。


「うぅぅぅ……」


 考え事をしながら川原に向かって歩いていたら、突然フィヤが唸り声を上げた。


「フィヤ……?」

「うぅぅぅ……」


 フィヤの視線を先に目を向けると、そいつが川の向こう岸にいた。

 雪に溶け込んでしまうような白い毛並み、爛々と光る瞳、先ほどの鹿よりも二回りは大きい。


 鋭い牙、太い脚の先には、たぶん鋭い爪が生えているはずだ。

 虎と思われる大きな動物の前に、思わず立ち尽くしてしまった。


 たぶん、さっきの鹿を追い掛けてきたのだろう。

 鹿を仕留めるどころか、僕らが食べられそうになっている。


 まだ距離は、150メートルぐらいあるはずだが、虎は僕らの方をじっと見詰めている。

 父さんから教わった、山で熊に出会った時の対処法を思い出し、虎から視線を外さずに、ゆっくりと家の方向へと向かう。


 ジリジリと家の方向へと戻り、フィヤを小声で呼び寄せた。


「フィヤ……おいで……」

「きゃん……」


 唸り声を上げて、虎を睨み付けていたフィヤが、僕の方へと向き直って走り寄って来た時だった。

 虎が僕らに向かって、猛然と走り始めた。


「フィヤ! ハウス!」


 フィヤと一緒に家に向かって一目散に走る。

 幸い、虎は岸の雪を踏みぬいて、川に嵌って大きくバランスを崩した。


 それでも走り始めれば、向こうの方が速いに決まっている。

 川原を駆け上がり、チラリと後を振り向くと、虎との距離はあっと言う間に100メートルを切っていた。


 フィヤは僕の指示に従って先に家まで駆け戻り、入口で心配そうに見詰めている。

 あと15mぐらい……虎との距離は50メートルを切っている。


 急激な運動と恐怖心が重なって、心臓が破裂しそうだ。


「きゃん、きゃん、きゃん、きゃん!」


 入口で待っていたフィヤを押し退けるようにして家へと飛び込み、扉を下ろした途端、もの凄い衝撃が襲って来た。


 ドガァァァァン!


 扉を支える木組みや壁までが揺れるほどの衝撃だったが、辛うじて扉は原型を保っている。


「グルアァァァァ!」


 お腹に響くような咆え声、濃密な獣臭さが家の中まで入り込んできた。

 バリバリと扉に爪を立てている音も聞えてくる。


 扉は太さ10センチほどの木を蔓で繋いで、隙間を粘土で埋めたものだ。

 繋いでいる蔓を切られたら、バラバラになってしまうだろう。


「フィヤ、奥に下がってて!」

「きゃぅぅぅ……きゃぅぅぅ……」


 銛を手にして、フィヤには家の奥に行くように言ったが、そんな指示は教えていないので、不安そうな声を上げてウロウロしている。


「グルァァァ……ガァァァ……」


 扉の外からは、野太い唸り声とバリバリと爪を立てる音が続いていて、正直恐ろしくて足が震える。

 扉はギシギシと音を立てて歪み、今にも壊れてしまいそうだ。

 何とか諦めて行ってくれと願い続けても、虎は諦める様子を見せない。


 ガリガリ……ギチギチ……ブチ……ガリガリガリガリ……


 執拗な虎の攻撃に、とうとう扉は限界を迎えて、中央のヒビ割れから白い毛並みが見えた。


「うあぁぁぁぁぁ!」


 先手必勝、ヒビ割れに向かって、思い切り銛を突き入れた。


「ギャウゥゥゥ! グルァゥゥゥ……」


 虎の悲鳴が聞こえて、扉を揺さぶる振動が止まった。

 これなら撃退できるかもしれない……と思った瞬間だった。


 バキンという大きな音共に、扉の中央に大きな穴が開いて、太い虎の前脚が中へと侵入してきた。


「グワゥゥゥ! グワァアァゥゥゥ!」


 虎は左の前脚を突っ込んだまま、扉をガタンガタンと揺さぶり続けている。

 このままでは扉が壊れるのも時間の問題だ。

 勇気を振り絞って、二本目の銛を虎の前脚に突き立てた。


「ギャウゥゥゥ!」


 虎は悲鳴を上げて前脚を引き抜いたが、穴の淵に引っ掛かって銛も抜けてしまった。

 直ぐに、虎の前足が侵入して来て、再び扉を揺さぶる。


 この時になって、ようやく家の入口に仕掛けた罠の事を思い出した。

 鋭く尖らせた銛を結び付けた丸太が、家の入口に吊り下げてある。


 丸太に繋いだ蔓を石斧で叩き切ろうとして、マズい事を思い出した。

 一度、蔓が自然に切れて罠が勝手に落ちた事があって、危険防止のための支え棒を置いてしまったのだ。

 棒を外さないと、罠が上手く落ちない。


「グワァァゥゥゥ!」


 迷っている間にも、虎が扉の穴を広げていく。

 一瞬だけでも虎を後退させて、その隙に穴から手を出して支え棒を取り除ければ……物凄く分の悪い賭けに思えるが、他に方法を思い付かない。


 扉に突っ込まれている虎の前足に、もう一度銛を突き立てた。

 悲鳴を上げて虎は足を引っ込めるが、直ぐに逆の足を突っ込んで来る。


 銛の先を付け替え、更に付替え用の銛を左手に持って構えた。


「ギャアァウゥゥゥゥ!」


 銛で一撃、更に逆の足が突っ込まれて来る所に、カウンターで銛の先を突き入れると、さすがの虎も後退した。

 その瞬間に扉の穴から手を伸ばして支え棒を外したのだが、腕を引っ込める前に虎の爪が腕に食い込んだ。


 このまま腕を外に出しておけば食い付かれるから、構わず腕を引っ張りった。


「あぐぁぁぁぁ!」


 左腕に焼けるような痛みが走ったが、今はそちらを気にしている暇は無い。

 直ぐに、僕の腕を追いかけて、虎の前脚が扉の穴へと突っ込まれて来た。

 すかさず石斧で、罠に繋いだ蔓を叩き切った。


「ギャオゥゥゥゥゥ!」


 凄まじい絶叫が響き渡り、虎は家の壁が崩れるのではないかと思えるほどに大暴れを始めた。

 扉の穴から前脚が引き抜かれたが、虎は扉の前でもがいている。


 銛の先を付け替え、扉の隙間から次々に突き入れ続けた。

 手元にあった十本以上の銛を使い果たした頃、虎は静かになっていた。


 扉の穴からは、ピクリとも動かない、鮮血に塗れた白い毛並みが見える。

 助かるかもしれない……そう思った途端、左腕に猛烈な痛みが戻って来た。

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