3

「本当にありがとうございました」


 帰路に発つ瑛比古さんに、佐和子さんは深々と頭を下げた。

 丸田氏は警察関係者に挨拶に行き、ハルが荷物持ちに同行していた。

 小早川クンは車で待機中だった。


「いいえ。これからが大変でしょうけど……」

 頑張って下さい、そう続けるつもりだったが。

「あなたなら、どんなつらい局面でも、乗り越えられると思います……希和子さんと違って」


 言葉通りなら、激励の台詞。


 けれど、佐和子さんは、含まれている『毒』を感じ取り……にっこり笑った。


「ええ、私は多くを望みませんから。夫と子供との、平凡で平穏な生活があれば……それを守るためには、努力を惜しみませんから」

 あくまで爽やかで、清々しい笑顔。


「そういえば、土岐田さんは、写真を見て、希和子に憑いているのは貴弘さんの子供ではないとおっしゃいましたよね。もしかして、誰の子供だかも、お分かりになるのかしら」

「……並んでいる人間の中から当てるんであればね。写真でも、本人でも」

「そうですか。和興さんの写真があればよかったですね」


 その瞬間、瑛比古さんは、背筋に冷や汗をかいた。


「私、真知子さんを大切に思い始めているんです。弘夢をとっても可愛がってくださって。希和子の代わりに親孝行させて頂けたら、なんて、おこがましいかしら」

 裏心は感じない、真摯な思いが伝わる。

「……喜ばれるんじゃないですか? あなたは強い女性だから、真知子さんの助けとなれると思いますよ」

「守るものがある時は、強くなれるんですよ。それとも強い女はお嫌い?」

「どっちかというと、好みです。妻も強い女でしたから」

「じゃあ、私も弘夢を、ハルくんみたいな、強くて優しい子に育てることが出来るかしら」

「さあ。私も誉められた親じゃありませんから。こんな親のもとで、随分よく育ってくれたと思ってます。子供は、可能性の塊ですね。どうぞ大切になさって下さい。弘夢くんも……真知子さんも」

「ええ」


「……そうだ、一つ聞いてもいいですか?」

「どうぞ」

「ここに来る新幹線に乗る時、頭が痛いっておっしゃってましたよね? ……丁度、希和子さんが飛び降りた頃。もしかして、その衝撃でも伝わりましたか?」


 佐和子さんは静かに首を横に振った。

「ちょと考え事していただけです。希和子に会ったら、何て言おうか、とか。たった二人きりの姉妹なのに分かりあえなくて悲しいな、とか。あとは真知子さんに話したようなことくらいかしら」

「そうですか。ありがとうございました」


 会釈して、病院の駐車場に止めてある小早川クンの車に向かう。

 ハルが手を振って合図していた。


「そうだ、土岐田さん」

 佐和子さんが、呼び止める。



「希和子が飛び降りたのは、あの後ですよ」



 にっこり、佐和子さんが微笑む。

「どうぞお気を付けてお帰り下さい」 

   





 二ヶ月後。


「え! 佐和子さんが?」

「ええ、ご主人と子供さん連れて。大きくなったわねえ。来年は小学生かあ」

 佐原主任が遠い目をする。

 あの後、死に物狂いでレポートを仕上げ、最終週も無事に過ごして、産科病棟の実習は修了した。

 今は外科病棟実習の最中である。


 で、何故に産科病棟の佐原ミチ主任が外科にいるかといえば。

「佐原主任……カイザー終わったって、学生が呼びにきましたけど?」

 恐る恐る声をかけてくる新人看護師(この春卒業・入職したばかりのハルたちのすぐ上の先輩だ)の後ろに、三人の看護学生が緊張した面持ちで棒立ちしている。

 帝王切開の見学をする学生達を手術室に連れてきて、向こうの看護師にバトンタッチし、終わる頃合いを見計らって外科病棟で時間を潰していたのである。


(母性看護学実習の帝王切開手術見学では手術中の処置および新生児の手当ての見学の指導は手術室配置の看護師が行う。ちなみに、今日の佐原主任は実習指導オンリーのフリーシフトなので、比較的余裕がある勤務ということ)


「あ、行きまーす。ハルくんによろしくって言ってたから。ご主人の治療でメンタルケア外来通うんだって。また会うかもね」

 用件だけ伝えると早足で学生達の方へ向かい……すぐに戻ってきた。

「何か、奥さん、感じ変わってた。前から穏やかで優しい人だったけど、何だか胆が座ったっていうか……強くなった気がする」

 ま、子供を育てるには、強くならざるをえないんだけど……それだけ言い置いて、今度こそかなり足早に去っていった。


「へえ、ミチ姐、そんなこと言っていたのか」

 夕食後、ハルから話を聞いた瑛比古さん、佐原ミチの慧眼に心の中で拍手した。

 実は昼間、やはり佐和子さんが、貴弘さんと弘夢くんを伴って、明知探偵事務所へ訪ねてきた。

 貴弘さんは全ての記憶を取り戻しはしなかったが、佐和子さんが献身的に看病しているためか、少しずつ発語が増え、笑顔も見られるようになってきたと、丸田氏に聞いていた。

 慣れない場所にきて緊張しているのか、最初は表情が強ばっていたが、対照的に、てらいなく人懐っこい笑顔を見せる弘夢くんを見て、ふっと微笑むことがあった。


「記憶がなくても、指は電卓やブラインドタッチを憶えているみたいで。須藤のご両親の紹介で、経理事務の仕事を紹介していただきました。まずは社会復帰のリハビリと言うことで、パートなんですけど」

 生活費については、須藤義正氏から慰謝料を払うという申し出があったが、辞退したと言う。


「元のように暮らせれば十分です、ってお断りしました。だって、あまりにも高額な小切手をお見せになるものだから……」

 ならば、生活が軌道に乗るまでの手助けをさせて欲しいと言われ、お願いすることにしたという。


「……多くを望まない、佐和子さんらしい選択ですね」

「それでも過分なお世話をいただいて、心苦しいくらいです」

 邪気のない笑顔で、申し訳なさそうに、少し目を伏せる仕草は、楚々としていて、しおらしげだ。


(……本当に女は魔物だよ)

 確かに高額過ぎる慰謝料はいらない、元通りの生活に戻るための手助けなら有り難くお受けする、と言うのは、欲が無い、と思える。

 だが相手は天下の須藤建設会長夫妻だ。

 そのコネクションは値千金……この求職難の時代に、なまじっか現金を貰うより、ずっと価値がある。


 いつ回復するか分からない貴弘さんや、これからお金がかかる弘夢くんを抱かえて、元通りの生活に戻るには、資金はいくらあっても足りない。

「そういえば、あの人も経理の仕事していたんだっけ。さすがだよなあ」

 普通の人間なら、目の前に多額の小切手があれば、日々の生活費の援助など目もくれず、飛び付くだろう。

 日々の生活、何年続くかわからない療養生活……それらを試算すれば、一時の大金など、所詮あぶく銭であることを、冷静に判断している。


「やっぱり強い人だよ」

「何が?」

 洗い物を終え、拭いた食器を棚にしまっていたナミが聞き返す。

「女性は強いなあ……って思って」

 子供のために、夫のために、なんであんなに強くなれるのか。


「男がだらしないと、女は強くならざるをえないんだって」

「ナミ……どこでそんな話聞いたんだよ?」

 何となく想像はつくが……一応瑛比古さんは聞いてみる。

「美代子お姉さん。でもお父さんや大兄ちゃんは大丈夫ね、って。だから僕言ったんだ」

「何て?」

「でもお父さんも大兄ちゃんも、自分に関係なく強い女の人が好みだと思うよ、って……」


 瑛比古さんは脱力し、メイと絵本を読んでいたハルは絵本に顔を埋め、一人遅い夕飯を摂っていたキリは大爆笑し……。

 笑い声の中で、ハルにはナミの言葉の続きが聞こえた。


「お母さんみたいな人」


 ああ、そうだな。

 不幸をも幸せに換えてしまう力を持った、強い人。

 母さんも。

 あの人、も。


 佐和子さん。


 たおやかで、その名のように、さわやかな。

 竹のような、しなやかさと、強さを持っていた人。


 希和子さんの声に責められ、自分を失いながらも、希和子さんにあやまり続けていた。

 希和子さんに悪意を吹き込まれて、ボロボロになり、選んだのは、無抵抗になること。


 楽になる、と本人は言っていたが、存在意義を否定され続けることは、精神的に大きなダメージとなる。

 自分の価値を見失い、社会へ出ていく気力さえ奪いかねない。

 そういった大きなストレスで心を病み、社会生活が難しくなるほどの無力感を持ってしまう例があることを、看護学生レベルとはいえ、ハルは学んでいた。


 にもかかわらず、社会に出ていた。半分は希和子さんの声に促されてとはいえ、どこか夢うつつで記憶があいまいとはいえ、きちんと交流していた。それは、佐和子さんの本質。


 人と交わることを恐れることはなく、にこやかにあいさつをし、笑顔で応対していた。

 無気力になったのではなく、衝撃を和らげるために、無抵抗でいたのだ。


 解離は、心の重圧を和らげる、防衛機制と呼ばれる、人間が心を守る大切な機能のひとつだ。もちろん重圧が強すぎる時は精神疾患につながることもあるが、心を壊さないように衝撃を和らげる働きもある。

 強風に立ち向かい折れてしまう危険を侵すよりも、風に任せて身を曲げ、やり過ごす方法を選んだだけ。

 弱さ、を選ぶ、強さ。


 同じ年月で貴弘さんは治療が必要な程に心を病んでしまったが、佐和子さんには後遺症を残さなかった。


 どちらが良く、どちらが悪いわけではない。


 あくまで抵抗し続ける強さがあれば、また違った結果になったかもしれない。

 それだけの強さが自分にないことを知っていたから、ふんわりと受け止めて、流していたのだ。


 佐和子さん。

 あなたは、平凡で平穏な日常にこそ幸せを感じていたけれど、それが簡単に崩れてしまう砂上の楼閣だと知っていた。

 だから、日々の小さな出来事に喜びや楽しみを見つけることを忘れなかった。


 再び平穏な日常生活に戻るには、時間もエネルギーも必要だ……もちろんお金も。

 だけど、恒常的に須藤家の援助を受ける必要はない。

 スタートのサポートがあれば、彼女の強さで乗りきることができるはずだ。


 それなのに。

 あえてそれ以上を望むのは。

 希和子さんのため。


 実は分かっていた。


 瑛比古さんの暗示も、ずっと前からハルが自分でかけ直していた。

 いつかは話そうと思っていて、そのままにしてるが、なかなか話せずにいた。


 しっかりしているようで、過保護気味の瑛比古さんを、ハルも実は甘やかしている自覚はある。


 そんな瑛比古さんはハルには知らせたくないようだったが、ハルには見えていた。


 希和子さんに何があったのか。

 それを佐和子さんが全て知ってしまったことを。


 ハルに届いた助けを求める「叫び」。

 そこには、佐和子さんだけなく、希和子さんの声も、紛れ込んでいた。


『お姉さん、助けて……』


 消え入りそうな、小さな声。

 様々な悪感情の中で、今にも押しつぶされてしまいそうになりながら、佐和子さんにすがっていた、かすかな思い。


 魂の底から、助けを求める、悲痛な叫び。

 それは、佐和子さんにも、届いていたと思う。


 途切れていたはずの同調が、あの新幹線のホームで、不意に繋がった。

 そして、一気に流れ込んできた記憶。

 もしかしたら、希和子さんが自殺を図った瞬間だったのかもしれない。


 あの記憶が、希和子さんとの再同調によるものだったのか、それとも同調した佐和子さんの思考が流れ込んできたのか、今となっては分からないけれど。

 純粋な佐和子さん自身の思考は、ほとんど感じ取れなかったし。


 ただ、あの時を境に、佐和子さんは、変わった。

 ただただ希和子さんから憎しみを向けられていることに憤り哀しみ、嘆いていた佐和子さん。

 けれど実際は、現実的に自分の出生について調べたり、憧れを抱きつつ高望みはしないよう自分を律したり、理知的な行動や思考を取っていた。

 そんな現実対処能力を人には見せないようにしていた、と思う。

 佐和子さん自身が、そんな自分を好いていなかったのかもしれない。

 春のような穏やかな微笑みで、現実のつらさなど意に介さず、ただただ愛される存在になりたい、それが彼女の理想だったのかもしれない。

 その影で、冬の大地ような冷静さと力強さで、愛するものを守る力を隠し持って。


 そして、あれほどの苦しみを味わいながら、それでも佐和子さんは希和子さんを、唯一無二の妹を、切り捨てることは出来なかった。

 希和子さんのために、修羅の道を選んだ。


 春の微笑みの仮面を被ったまま、冬の冷徹さで、家族を、妹を守る。


 それは、きっと、誰にも知られることなく、成し遂げられる、復讐。

 佐和子さんにしかできない、眠り続ける希和子さんの意思を受けて。

 希和子さんの心を壊した、本当の、相手に。


 不思議だね。

 佐和子さんも希和子さんも、心から愛してくれる養い親と出会ったのに。

 仲の良い姉妹になりたいと、願っていたのに。


 一人の男の身勝手な愛情を発端に、行き違ってしまった。彼とて、最初から間違っていたわけではないはずなのに。そうでなければ、彼女は、心の奥底で彼を慕うことはなかったと思う。

 家族を愛し、家族に愛されたい。

 ただそれだけの、当たり前の欲求。

 平凡で幸せな家族になりたい、そんな同じ幸せを追い求めていたはずなのに。


 やっと同じ方を向いて行けたのは、幸せからは程遠い、修羅の道。


『それでも幸せよ。愛する夫と子供と、妹を守るためだもの。多くの幸せは、望まないわ』


 あの夜、別れ際、流れ込んできた佐和子さんの想い。


 そして。


『お幸せに』

 それは、別れの言葉。


 それっきり、佐和子さんの想いも、希和子さんの思念も、ハルに流れ込んでくることはなかった。


(お幸せに)


 ハルも祈る。

 愛する人を守ることしか望まない、ささやかな幸せしか望まない彼女の、彼女自身の幸せを。


 そしてハルもまた、別れを告げた。


 遅すぎた、初恋、に。

 無邪気な、少年の、日々に。


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