由香里さんにお客様よ
由香里は自室に着くなりベッドに突っ伏した。制服を着替える気にもならず、晃生から聞いた話を反芻する。
羽澤家から逃げられるかもしれない。この狂った家から。その希望にすがりたくなるのにどこかで信じきれない。
本当に。本当に逃げられるのか。
幼い頃に別れた姉の姿が頭に浮かぶ。羽澤に引き取られてすぐの頃はすべてがお揃いだった。
由香里と絵里香がいた養護施設は経営がギリギリでお揃いどころか女の子の服すら着ることが出来なかった。継ぎ接ぎしたボロボロの服はぶかぶかで、髪だって満足に整えられずに手入れが大変だからという理由で短く切られていた。
二人一緒に引き取ってくれる人は滅多にいないからバラバラになるだろう。そう施設の人にはいわれていて、施設からでたいという気持ちと離ればなれになりたくないという気持ちで毎日泣いた。
だから、二人一緒に引き取られたときは本当に嬉しかった。引き取ってくれたのはとても美人な女の人。施設の人はあなたたちは運がいいとしきりに喜んで、幸せになりなさいと頭を撫でてくれた。
初めて訪れた羽澤家はまるきり別世界。綺麗な家に綺麗な服。欲しいというものは何でも与えられて、お姫様みたいに素敵な立ち振舞いを教わった。いわれた通りにすると皆が誉めてくれて、最初は純粋に嬉しかったのだ。
施設とはまるで違う大きなベッドで仲よくならんで、手を繋いで眠る。もう不安だと泣くこともなくただ幸せだった。ずっと幸せなままだと思っていた。
それは唐突に終わった。
ある日、目が覚めると絵里香はいなくなっていた。絵里香はとても良い子だから徳の高い方に御使いすることになったのだと説明された。なんでと泣いたら初めて母親になった女性にぶたれた。
そこから始まったのは施設で感じた不安なんて可愛く思えるくらいの地獄だった。毎日不安で怖くて、それなのに絵里香はいない。抱き締めてくれた施設の人もいない。一緒に遊んだ友達もいない。新たに信用できる人間なんて出来るはずもなかった。ただひたすら、いわれたままに動くだけの日々。
それがようやく終わる。二人で逃げられる。
由香里はベッドの上で体を丸める。希望と不安が交互に襲ってくる。信じたい。でも信じられない。怖くて、怖くて、たまらない。失敗したらどうなるのだろう。今度こそ自分も絵里香もただじゃ済まないかも知れない。そんな恐怖が体を支配する。
震える体を抱き締めているとノックの音が響く。反射的に身を起こした。
「由香里さん、今いいかしら」
母の声が聞こえる。由香里はあわてて身だしなみを整え、ドアへと向かった。
「何かご用でしょうか」
「由香里さんにお客様よ」
にこりと年齢を感じさせない笑みを浮かべて母は由香里の手をとった。柔らかい口調ではあったがが有無をいわせぬ迫力がある。嫌な予感に由香里は思わず逃げ腰になった。
「お待たせしてはいけないわ。ほらいらっしゃい」
表面上は穏やかにそういって母は由香里の手をきつく握りしめた。その時点で由香里の拒否権などないのだ。
何度も歩いた廊下が恐ろしい。母に手を引かれ一歩進むごとに不安が大きくなる。
「お待たせしました」
客間の前で母は恭しくそういって襖を開けた。見えた光景に由香里は息を飲む。
客間には航、快斗、深里、響の四兄弟が勢揃いしていた。
「こんな時間に申し訳ありません。早急に確認したいことがありまして」
「いえいえ、本家の方にわざわざ足を運んでいただけるなんて光栄ですわ」
航の言葉に母は上機嫌に答えた。これは建前ではなく本音だ。本家の人間。しかも次期当主を争う兄弟が揃って訪れることなどありえないことだ。守家は羽澤の中でも地位がある家ではあったが、羽澤の人間はどこまでも貪欲な者が多い。権力者に取り入る機会があるのであれば喜んでそうする。それは母も同じだった。
「私はお茶の用意をしてきますので、どうぞおくつろぎください」
母はそういうとあっさり出ていってしまう。不安がっている由香里の気持ちなどまるで関心がなかった。
立ち尽くす由香里に響以外の視線が集まる。航の眼光は鋭く、快斗はニヤニヤと値踏みするように、深里は一見すると穏やかな表情だが空気が冷たい。
兄たちの後ろの方で一人下を向いて座る響だけが暗い顔をしている。だから彼は味方なのだろうと由香里には分かった。けれど、この場では響も由香里も笑ってしまうほどに弱者だった。
「由香里さんに聞きたいお話があって失礼しました」
深里が穏やかな顔でそういうとテーブルを挟んだ向かいを手でしめす。座布団が置かれたそこに座れという圧に由香里は抗うこともできずに腰をおろした。
「まずは謝罪させて頂こう。愚弟のせいで要らぬ心労をおかけした」
航がそういうと快斗が後ろにいた響の頭を勢いよく掴んで無理やり頭を下げさせた。あまりに乱暴な行動に由香里は青ざめる。
「コイツが本命にちょっかいかけたせいで妙なことなって大変だったなあ。響、ちゃんと謝れよ」
「由香里さん、大変申し訳ありません」
響は頭を押さえつけられても毅然とした態度だった。それに快斗は面白くなさそうに鼻をならす。しかし押さえた響の頭を離す気はないようで面白半分に力をいれているように見えた。
そんな快斗の行動を航と深里は気にもとめない。いつものことという態度に底冷えする。快斗の暴力を咎めもせず、まるで響も快斗もいないかのように姿勢正しく座る異常さに体が震えた。
「安心してください。あなたを御膳にしようなどと私たちは考えていません。あなたはあくまでも不測の事態の備え。形だけの御膳候補です」
深里が穏やかな声で告げても体の震えはおさまらない。笑っているのに恐怖が消えない。こんなに恐ろしい笑みは初めてだった。
「しかしながら、状況は少々面倒なことになっています。このままの状況が続くようであればイレギュラーがおこりかねません。たとえば……そうですね」
そこで深里は言葉を区切るとじっと由香里を見つめた。
「別の御膳を用意するとか」
言うことを聞かなければお前の姉を贄にする。そう脅されているのだと分かって血の気が失せた。それだけはやめてくれと声にならない悲鳴を上げる。じっと深里を見つめると深里は慈愛に満ちた顔をした。
悪魔だ。そう思った。
「問題は解決すればいいのです。あなたにはなんの落ち度もないのですから。ただ正直に質問に答えてくだされば」
「魔女の森に御膳候補が入ったっていうのは本当か」
深里の言葉をついで快斗が口を開いた。愉快で仕方ないという顔で由香里をみる姿は無邪気な子供のようであったが、重苦しい空気をまるで気にしない様子はただ異質だった。
「手引きしたのは響だろう」
ちらりと航が響をみる。響は快斗に押さえつけられたままなにもいわない。前髪の隙間から見えた顔はなにかに耐えるように歪んでいた。それは抑えつけられた痛みではない。なにも出来ない無力な自分自身への怒りだ。
「こんなゴタゴタさっさと終わらせようぜ。お前だってお役目から解放されたいだろ」
心底面倒くさいという顔で快斗はいう。御膳が誰になろうが興味はない。そんな態度にこの人にとってはすべてが他人事なのだと気づいた。
「ただでさえ今年は予定が決まらず遅れている。これ以上は他の予定にも差し迫る」
ただ事務的に淡々と、機械のように航は告げる。人の命がかかっているなんて少しも感じさせない声。
「そうだね、そろそろ……」
最後に口を開いた深里は聖母のような笑みを浮かべた。
「御膳祭を始めようか」
これが当主の息子たち。羽澤を継いでいく者たち。そう思うと乾いた笑いが漏れる。やはりこの家はおかしい。なにかが歪んで狂って、もうどうしようもないほどに壊れている。
この家に足を踏み入れた日、すべては終わってしまったのだ。幸せな未来など自分にはやってこない。
せめて、絵里香は、姉だけは逃げられますように。
最後に祈りを捧げた由香里は重たい口を開いた。
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