第十章 恐怖と誘惑の狭間

J・全山縦走当日 14時過ぎ… 六甲山縦走中 人が増えすぎるとなんとも…。




 ああ…美味い…。


 郵便局の脇で甘酒を飲んで、俺は一息つく。さすがは、天下の酒処…神戸の甘酒だ。(もしかしたら、神戸の酒と関係無いかもしれないが…。)摩耶山を越えてしばらくいくと、縦走路の起伏は一旦落ち着く、山道と車道を交互に入り組みながら、全山縦走は続く。(ややさびれているが)車道にはホテルや企業の保養所、商店などが並び、それなりの町を形成している。この甘酒はここ郵便局が毎年縦走大会の時に炊き出しでふるまってくれているらしい。トイレも貸して貰えて本当に感謝しか感じ得ない。少し冷えてきた気候のなか、疲れた体に甘酒が染みる。




 実は、裕美たちとは一旦別れて、俺はまた一人で歩いている。い、いや、今回はボッチ故ではない。(だから何の言い訳だ。)一つは、やはり、登山に慣れていない楓に少し疲労が見え始め、女性陣は少しペースを落とす必要があった事と、この辺りは車道と山道のどちらを通ってもよい箇所が何か所かあり、ジジイや高松君を万が一追い越してしまう心配が無いよう、2手に別れた方がいいだろうという結論になった。じゃんけんで俺は山道パート担当…。こっちは起伏がそれなりにあって、歩くのがシンドイ。歩きやすい車道は女性が歩いた方が良いのだが、当然車道は車が通り歩道が無い場所もあり通行には十分な注意が必要だ。




 そんな郵便局で一休みしていると、一人の壮年の男性が声をかけてきた。




「先ほどはどーも」




 ん?誰だ?先ほどって、まったく記憶にないぞ。細身で眼鏡をかけ、人の好さそうな顔をしている。随分使い込んだザックやウェアが印象的だ。かなり登山に慣れてる感じか。




「さっき妻が君のお連れの女性に手当てをして頂いて」




 ああ、そうか…。あのマムートの一団…。男女2、2の4人組。その一人だ。マムートじゃ無い方の男。っていうか、俺に話しかけるか?普通。




「ああ、その節は…今、おひとりですか?」


「ああ、私以外の3人はあそこでリタイアしたよ。」




 …気まずい…。


 繰り返すが、御仁。何故俺に話しかけた。まさか、謝って欲しいって事か?ふざけんなよ。俺がそんな簡単に人に謝る人間なわけ…




「すみませんでしたー」




 はい、おなじみの負け犬根性。久々でましたダメ社会人四十八手、とりあえず謝罪。




「ああ、いやいや、そんな。謝って貰いたくて話しかけたんじゃないよ。」




 おじさんは少し困ったように笑った。




「喧嘩売ったのはこっちだしね。」




 あれ?裕美じゃなかったっけ?まあ、話をややこしくするのはよそう。




「あの4人の中では私が一番登山歴があるんだ。登山ではいつも案内役でさ。登山マナーの教育も私の仕事なんだが…そういうの本当に苦手でさ。本当に情けない限りだ。」




 ああ…。解る…。グループからハブられたくない一心で色々自分からやっちゃう人だ。その癖、美味しい所は声のデカイ人に持っていかれる。人生一番損する人だ。俺もそういうフシがあったから結局長い人生でボッチでいる事を選んだ。故にボッチ最強…。っていうのは俺の強がりって事で、もういいだろう。実際、単独よりもパーティー組んだ方が出来る事が多いのも事実。本当の大人はそうやって齧りついてでも守らなくちゃいけないものを皆もってる。故に俺は大人じゃない。




 俺とおじさんは自然と2人で歩き出した。裕美はあの後、奥さんの治療が終わると何も言わずにあの場を去ったらしい。




「いやー。苦労したよ。あのまま妻をリタイアさせる事と、自分だけこのまま縦走を続ける事に理由をつける事…。まあ、あちらの御主人が責任もって女史2人を送ってくれるって言ってくれたから…。あの女の子に、世話になった以上誰かがお礼を言わないといけないってさ。根は悪い人じゃ無いんだよ。仲間思いだし。」




 マムート…。仲間思いは排他的の裏返し…。俺が社会人生活で学んだ、数少ない格言。元々、一人で登山するのが好きだったこの人…山路さんは、定年を向かえるにあたり奥さんも登山に連れていけとせがまれ、簡単な山に二三回連れて行ったらすっかり登山にはまってしまったらしい。




「登山は本当に一人で行きたいんだ。でもね…嫁さんも怖くて…。しまいには嫁さんが友達も連れてきて、私が色んな山を案内しなくてはいけない始末だ」




 もう、目に浮かぶなあ…。当日の登山ペースから、宿泊場所の手配まで全部やらされて、なんなら行きかえりの車の運転もさせられてるこの人…。いや、俺もジジイと登ってた時はそんな感じだったけど…。全部おんぶにだっこのくせ、登山中なにかあったら全部、この人のせいにさせられるんだ。




「まあ、それをやってるおかげで、年に何回かは、一人で登山に行かせてもらってる。何年も、家の事をやってきてくれた大事な奥さんなんだ」




 俺は黙って話を聞いていた。俺は、もう登山はしてないが、苦労してでもやりたい事をやってるんだろう。まあ、マナー違反はいただけないが…。




「私は関西出身じゃないが、縁あって神戸に住むことになった。一度、全山縦走は完走したかったんだ。妻達が付いてくると言った時は焦ったよ。絶対無理だと思ったから。でも聞かなかったねー。」




 なんか、結論の無い話を聞いてる感じになってきたが…この人なりに謝りたかったのかもしれない。だから、無理して一人で歩いてきたのだろう。謝る相手は俺じゃないと思うが。


 道は、ゴルフ場の間を縫って進む。もうすぐガーデンテラスという、展望台にたどり着くだろう。そこを過ぎると六甲最高峰まであと一息。縦走も中盤を越えそうになってきた。




 この山路さんも元々ソロ好きらしいから旅もガーデンテラスまでかと思ってたが…。


道を歩いているとアイツがいた……






 楓の元カレ…


 そっちかい!?もういいか…。




車道の脇を歩いている途中だ。高松慎吾は道のわきに座り込んでいた。休憩中か?それとも、覚悟を決めて楓を待っているのか?こんなところで?




「あ、シンジさん…。」


「どうした?休憩かい?それとも覚悟ってやつが決まった?」


「あ…ええ…」




どうも、歯切れが悪いな。何かあったか?




「登山靴…かな?」




 山路さんが会話に割って入る…。ああ、靴…。高松慎吾の靴は少し使い込まれた有名メーカーの物だった。多分、久々に使ったのだろう。靴底のつま先の部分が少し剥がれていた。




「2、3年前に買った軽登山用です。確かに使用期間は空いてたんですが、この縦走前に何度か慣らしで山に登ったんで大丈夫かな?って…」




 軽登山用の靴というくくりは最近できた言葉だろうか?俺は良く知らなかったが、普通の登山靴の寿命は2,3年。本格的なやつは1,2年に一回はソールと言われる靴底を張替て貰わないといけない。使ってない時期の保管にも気を使わないと湿気が原因である日突然、劣化した接着剤が原因で靴底がべりべり剥がれたりする。俺もそれが怖くて、今履いてるのは、この為だけに買った、ただの運動用スニーカーだ。それも50キロ以上歩くこの大会ではどうなるか分からない。




「予備の靴は…持ってる訳無いか」




 皆、この長距離を歩くためにグラム単位で荷物を削っている。


 高松の靴は、山路さんが、ガムテープと、プラスチックの結束バンドを持っていたので、簡単に補修をしてくれた。俺も少量のガムテープを持っているが、それはあくまでザックやウェア、テント(今日は流石に持ってない)が破れた時の補修用だ。靴の修理まで見越して用意してる山路さん凄い…っていうか、山路って名前が登山の為の名前っぽいな…今どうでもいいけど。




「これで短時間なら大丈夫だが…。山道を長時間歩くのは無理だ。それに片方がこうなった以上、もう片方も、いつ同じ状態になるか分からない。わかるね?」




 使ってる登山靴からある程度の登山歴と覚悟を持って縦走に臨んでいる青年だと、山路さんは直ぐにわかったのだろう。子供に言い含めるよう、優しく…でも真剣な口調で言った。




「ひとまずはガーデンテラスまで行こう」




今度は俺が言った。あそこからはバスが出てて、六甲ケーブルの駅まで行くことが出来る。


俺達が促すと、高松は静かに従った。










10・六甲ガーデンテラス  9月




 ここ、 六甲ガーデンテラスは、今は無くなったロープウェイの駅を中心に作られた展望台だ。掬星台より少し町への距離が遠いのだが、レストランや売店など観光施設も揃っていて、ここも絶好の夜景スポットである。そして、ここはもう一つ…。全山縦走をする上で重要なスポットでもある。ここからケーブル山上駅までバスが出ていて、乗り継げば交通機関で山を下りる事が出来るのだ。




「いやー。眺めがいいですねー。休憩しやすいんで私は掬星台よりココが好きだなあ。」 




 信じられん。この裕美という女。なんて体力。新神戸からここおまで、およそ5時間…。若干涼しくなったとはいえ、まだ暑さの残るこの山道を延々歩いてまだ余力がある。っていうか、見た感じ大した汗もかいていない。こっちは、汗ダクダクもいい所だ。




「まあ、ブランク長かったならしょうがないですよ。」




 この人、本当にこの夏の間ずっと六甲を歩いてきたのだろうか?クソ暑いうえ、蚊をはじめ虫だらけだぞ。そこまでして何で、全山縦走をしようとしているんだ?




「どうします?宝塚まで行ってみますか?」


「冗談はよして…。行くなら御一人でどうぞ。俺、ケーブルで帰るよ。」


「わあ、お金もったいないなー。っていうか、この距離で音をあげてて、本番歩けるんですか?」




 うるせえ。本番はもっと涼しいんだよ。


 全山縦走的に言うと、ここは交通機関を使って下山できる最後のポイントだ。ここを通り過ぎてしまうと、15キロ前後先の宝塚まで歩き切るか、途中で有馬温泉方面へ1時間ほど歩いて下山するかくらいの下山方法しかなくなってしまう。その恐怖と誘惑から、ここで完走を諦める人が多い。




「ああ、でもせっかくこれだけ、六甲山歩いてるんだから一回くらいケーブル乗るのもいいかなー」




 うぜえ…。


 俺は自販機でサイダーを二本買い、一本を彼女に渡した。




「え?カロリー高く無いですか?せっかく健康にいい登山してるのに…」


「だから、冷たくて甘いのが良いんでしょうが。ダイエットしてるなら飲まなきゃいいけど。知ってるか?アルプスの山小屋とか、コーラがめっちゃ売れるてるんだぜ。北岳で飲んだ奴、死ぬほどうまかった」


「へえ…。でも、冷蔵庫とかあるんですか?」


「常温で出てくる。」




 うそー。とか嬉しそうに叫んでいる彼女をしり目に冷たいサイダーを喉に流し込む。この焼けた日差しの下、体が一瞬の涼を得る。




「私は楽しかったですよ。もくもくと歩いてただけですけど」




 あれ?なんか、デートのダメだし始まってね?




「俺は死にかけた。てっきり掬星台で帰ると思ってたからな」




 嫌な場所だ。中学の時にジジイ達と大会に参加した時、ギブアップしたのが何を隠そうここだ。ここでバスで帰れるって聞いて一気に心が折れた…。当時はまだロープウェイ動いてたっけ?なんにせよ、ガーデンテラスって名前じゃ無かった気がする。一人で降りるっていったけど、ばあちゃんが最後までみんなで行こうって言って結局3人で降りた…。くやしくって下りのケーブルで泣きじゃくってったのは今でも内緒だ。ジジイ…この女に話て無いだろうな。




「中学生の時、ここでリタイアしたんですって?」




あ、話してた。




「ケーブルの中でずっと泣いてたって言ってましたよ。」




ぐぬ…。やっぱ、そこまで…。




「子供ながら、情けなかったよ。参加の手配から何から何までジジイと婆ちゃんにオンブに抱っこだったのに、俺の我儘で二人をリタイアさせちまった」


「でも、いいなって思いましたよ。そんな子供で…泣けるほど悔しい事があるってすごいと思います」


「すごいってのは、そっから反省して鍛えなおして、後にちゃんと完走する人間だ。俺は二度と挑戦しなかった」


「じゃあ、今回きっちり清算しないとですね」




 どこまでも前向きで羨ましい…いや、眩しいのかな。彼女はやっぱり俺よりだいぶ上のステージにいる。




 あんたは…なんで、そこまで全山縦走大会に必死になってるの?




 って、聞きたい衝動にからっれた。だが、彼女はそれは聞いて欲しく無い事だと言っていた。


六甲全山縦走をライフワークにしてる人は結構いる。が、それでもこんな夏の時期から練習を…それも前泊でネットカフェに泊まってまで続ける人なんて正直異常だ。




 ケーブルカーに楽しそうに乗っている彼女を見ながら…。


 俺はそんな事を考えていた。


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