第35話 イナイ
「ねえ水内さん、起きて」
運転席のドアを開け、ハンドルを抱きかかえるようにして気を失っている水内の肩を揺さぶる。
死んでいないことは緩やかに動く肩で確認できたが、強くぶつけたせいでなにかしら命に関わるような怪我を負っている可能性だってある。
エアバッグはハンドルのものとサイドのものが作動しているため、深刻な怪我はしていないと思いたいのだが……。
「水内さん……」
「…………んあ」
根気強く何度も揺さぶり続けていると、水内はまるで寝起きであるかのような、いささか間抜けな声を漏らしながら身体を起こす。
そして半眼のまま、左、右と頭を巡らせながら辺りを確認し――
「――静城さんっ」
ようやく意識を覚醒させてくれた。
「す、すまないっ! あ、あ、あれからどうなった? 豊田は!?」
一旦首を縦に振りながら空唾を呑みこんでから、勢いよくいくつもの質問を並べ立てる。
それだけ責任を感じてくれていたのかもしれないが、既に終わったことを知っている私からすれば、なんとなく滑稽に見えて、思わず笑ってしまった。
「え、え? え!? ど、どうな……って……もしかして……」
私の態度で全てを悟ったのだろう。
額に手を当てて天井を仰ぎ見ると、特大のため息をひとつ、ついたのだった。
「すまない、肝心な時にこんなざまで……」
「ううん。あなたのお陰だよ」
どうやら勘違いはまだ少し続いているらしい。
豊田に引導を渡したのは水内なのに。
「全部、水内さんがやってくれたんだよ」
「…………」
言葉の意味を理解していなかったようなので、地面に転がっている豊田のことや、そうなったのは水内が車で追突してくれたからだ、などなど全部ひっくるめて説明する。
だが、私の説明が終わっても、水内の眉はひそめられたままだった。
「だから、私は水内さんに感謝したいの」
「いや、でも俺は君に言われた通り動いただけだしなぁ。危険なところは全部きみに押し付けて……。これじゃあ男失格だろ」
「今は男女平等の時代だから関係ないでしょ、もう」
「でもなぁ……」
どのみち私の役を水内が担うのは不可能である。
性欲にまみれた豊田は私が女だから興味を持ち、私を欲したからああして追いかけ回してきたのだ。
それを出来なかったからと嘆く必要は全くもって無い。
必要な役割を、それぞれが担ったというだけの話だ。
「あなたはきちんと私に合わせてくれた。文句も言わず、自分の役目を完璧にこなしてくれた」
水内は豊田の部屋で妹である翠の遺体を見つけた時、一瞬だけ呆然としていた。
でも、一瞬だけだ。
私が顔を覗き込んだらすぐに我を取り戻して謝ってくれた。
だから私は罠もどきを仕掛けて欲しいことや、車のエンジンをかけること、逃げるふりをして戻ってきて欲しいことなどを頼むことができたのだ。
「水内さんも辛かったでしょ? 悲しかったはずでしょ? なのに私を優先してくれた」
水内は妹の死体を見てショックを受けただろう。
豊田を直接じぶんの手で殺したくなるほど大きな怒りを感じただろう。
それらを抱えてなお、私の言うことに従ってくれた。
私のために動いてくれた。
だからこそ、絶対にひとりだけで逃げたりしないと信じることができた。
すべては水内だったからこそ、私は私の未来を預けることが出来たのだ。
そのことには感謝しかない。
「だから、ありがとう」
いつもは素直じゃない私でも、この言葉はすんなり出てくれた。
「あ……」
鳩が豆鉄砲を食ったような顔というのは今の水内みたいな顔のことを言うのだろうか。
目をまん丸にして、口を何度も無意味にパクパクと開閉していた。
そのまましばらく観察していると、水内は我を取り戻してからしきりに顔を撫でまわし、クソだなんだと愚痴をこぼす。
後半は口の中でごちゃごちゃ言っていて私には聞き取れなかったが、まあ、様子からして悪口でないことは分かるので、それ以上は踏み込まないでおいた。
「……それじゃあ悪いんだけど、悠ちゃんの遺体を車に乗せるの手伝ってくれる?」
「あ、ああ。……そ、その前に車が動くかだけを確かめてもいいか?」
「ええ、もちろん」
大型のバンは、エアバッグが作動するほどの衝撃を受けてエンジンが自動停止したのだろう。
獣の唸り声を高くしたような、なんとも不穏な音を響かせている軽トラとは違い、先ほどから一切の音を立てていなかった。
私が運転席の扉を閉めて数歩離れると、示し合わせたかのようにバンのエンジンが始動する。
プロではないので詳しくは分からないが、多分衝突する前と変わらないだろう。
これで、悠ちゃんを連れて帰ってあげられる。
私も、助かった。
「……あれ?」
まだ私はしなきゃいけないことがたくさんあるのに、なぜか全身の力が抜けていく。
私の体は私の意思に逆らって、その場にへたりこんでしまう。
倒れまいとなんとか両手を地面につけて支えにするので精一杯だった。
「なん……で……?」
もはや指一本動かすことすら億劫で、その上まぶたが自然に下がってくる。
もしかして、私も頭かどこかをぶつけていて、このまま死んでしまうのだろうかと不安に思う。
「静城さんっ」
遠くから水内の声が聞こえてくる。
水内に迷惑をかけたくないのに、なんて考えが頭をよぎり――そこで私の意識は途絶えたのだった。
「…………あ」
目を覚ますと、私の体は車のシートを倒して用意されたベッドの上に寝かされていた。
しかも、赤い毛布を首元にまでかけられ、額には冷たいタオルまで置かれている。
こんなことをしてくれるのは、恐らくなんて余地もないほどに水内しか居ないはずだ。
「ご、ごめんなさいっ」
慌てて謝罪をしながら体を起こす。
外はまだ日が照っていたため、そう時間が経っていないことは分かったが、それでも仕事を水内に全て押し付けて眠りこけていたのは事実だ。
申し訳なさでいっぱいになりながら水内の姿を求めて車内を見回す。
10人乗りのバンの中は意外と広く、クーラーボックスや水の入ったペットボトルなどが直接床に置かれていても、まだいくらかスペースが残っている。
特に私が寝かされていた場所の周りにはいっさい物が置かれていなかった。
最後列の4シートには毛布に包まれた細長いものが横たえられている。
恐らくはその中で清水悠が安らかに眠っているのだろう。
そして車の前方、運転席と助手席には荷物どころか人もおらず、完全に空っぽだった。
「……水内さん?」
嫌な、予感がする。
私は立ち上がると、なにか水内の居場所を知らせるものが無いか周囲を見回したのだが、そんな都合のいいものはなにもなかった。
水内は食料や水、それから私たちが元々持っていた荷物なんかもバンの中に運び入れてくれていたのだが、そういった物資を追加しようと家に入っているのかもしれないと思い至り、重い体を引きずりながら、ひとまずバンを降りる。
「ねえ、水内さんっ。どこに居るの?」
バンは玄関先1メートル程度とごく近く、スライドドアの真正面に家の扉が来るように停めてあった。
私は玄関を開けてすぐ、もう一度おなじ言葉を口にする。
しかし返ってくるのは静寂だけだ。
私の中で不安がいや増していく。
まさか、豊田の言動は嘘だったのだろうか。
本当は動けるのに、動けない振りをして油断を誘ったなんてこともあるかもしれない。
もしかしたら、と思ったら、もうどうしようもなかった。
土足のまま家にあがり、水内の名前を叫びながら探し回る。
豊田の部屋から風呂場や台所、果ては地下牢まで探したのだが、どこにも水内の姿を見つけることは出来なかった。
「水内さん、応えてっ!!」
なんでもいいから応えて欲しい。
持てる限りの祈りを込めて叫んだら、
「僕は知ってるよぉ~!」
新たにできた大切な人ではなく、代わりに人を喰らう悪魔が寄って来たのだった。
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