第34話 オワリ

 回る。


 世界が回る。


 ぐるぐる、ぐるぐる。


 上下左右の感覚すら曖昧なもの。


 なにもかもが、ぐちゃぐちゃにかき回され、かき乱される。


 巨人の手の中でもみくちゃにされたらこんな感じだろうか。


 何も分からず、理解すらできない。


 自分が在ることすら確信を持てなかった。


「――――――あ」


 これは私がなにか声を出したのだろうか。


 自分の声かどうかも分からない。


 だが、時間が経つにつれ、少しずつ少しずつ、夕立があがるように、霧が太陽の光で溶けて無くなっていくように、私の意識も戻り始めた。


 最初に感じたのは、臭いだ。


 花火をした時のような、鼻を刺すような臭い。


 次に感じたのは、体がひどく痛むということ。


 特に肩あたりが締め付けられるような感じがした。


 視界は、存在しない。


 全てが真っ白な光に包まれていて、なにかしるべになるようなものすら存在しない、完全な無の世界だ。


 もしかして、私の目が失われてしまったのかと心配になる。


 だが、続いて肌の感覚が戻ってきて、顔を何かで強く圧迫したからだと分かり、少しだけ安心した。


「……んっ」


 私は目をパチパチとしばたたかせ、ようやく戻って来た感覚を使って状況を確認する。


 私の体は現在逆さまに吊るされており、目の前にはエアバッグと思しき白い布切れがぶら下がっていた。


「あー……」


 頭に血がのぼって思考がうまくまとまらない。


 とりあえず分かることは、早く脱出しなければまずいということだ。


 私はずいぶんと近くなっていた天井に左手をつけ、逆の手でシートベルトのロックを外す。


「つっ」


 途端、私の体は天井に30センチほど落下し、頭をしたたかに打ちつけてしまった。


 その上散らばるガラスの欠片が体のいたるところをチクチクと突き刺す。


 もう体中が傷だらけでボロボロで、ちょっとばかり女性としての自信を無くしてしまいそうで、こんな時だというのに笑いがこみあげて来た。


「痛い……なぁ」


 でも痛いのは生きている証拠だ。


 私の体が生きるために発している信号なのだ。


 ああ、そうだ。


 私にはまだやるべきことがある。


 やらなくちゃいけないことがある。


 だから、立たなきゃ。


 立って成し遂げなきゃ。


「んんっ」


 私は体を捻って体勢を変えると、歪んで潰れたフロントガラスを押しのけ、車の外へと這って出る。


 どうにかこうにか脱出を果たした私は、膝小僧や手のひらについたガラス片を払い落としてから周囲の様子を伺い……戦慄せんりつした。


 トラックの荷台がちょうど彫刻刀のような役目を果たしたのだろうか、家の壁が5、6メートルにわたって大きく抉れ、部屋の中が完全に露出してしまっている。


 軽トラックそのものは、ぶつかられ、地面を転がされた影響で運転席が潰れて通常の7割程度の高さしか無くなっていた。


 一方、水内が運転し、追突してきたバンの方は、前面がめちゃくちゃに潰れてはいるものの、一応車の形は保っている。


 運転席の水内は、意識を失っているのか目を固く閉じて、エアバッグの作動したハンドルに体を預けていた。


「とりあえず水内さんはだいじょうぶ、かな」


 自分でやってくれと頼んだことではあるが、この惨状を見ると、こんな頭の悪いお願いはしなきゃよかったかななんて後悔の念が湧いてくる。


 もっとも、終わったことなのでそんな後悔は完全に意味のないことなのだが。


「……豊田はどこ?」


 ひっくり返った軽トラの荷台や、バンの下を確認しても、彼の姿は見えない。


 もしやうまく逃げ出したのかと焦りを覚えたのだが、私から死角になっていた位置、バンを回り込んだ反対側に横たわっていた。


「…………」


 とりあえず、今は起き上がる様子はない。


 しかし、いつ立ち上がってくるとも知れないため、私は手ごろな大きさの瓦礫を手に取り、肩の上にまで持ち上げてから豊田の傍へと歩いて行く。


 いくら警戒しても、しすぎるということはない相手である。


 私はいざとなれば――いや、むしろとどめを刺すつもりで近づいて行った。


「豊田、起きてるんでしょ」


 呼吸をしているのは、豊田の背中がわずかに上下していることから見て取れる。


 生きているのは間違いない。


 問題はどの程度コイツを無力化できたか、だが……。


「返事をしないと頭を潰す」


 脅し文句を口にしてみても、反応はない。


 恐る恐る近づき、反撃できないように両手を足で挟み込むような形で馬乗りになる。


 右手で砕けたコンクリートの塊を構え、左手で豊田の肩を揺さぶった。


 しばらくそうやって反応を伺っていると、


「う……あ……」


 意識が戻ったのか、豊田がなにやらうめき声を漏らした。


「豊田、正直に答えなさい。奈緒さんの息子さんを閉じ込めている蔵の鍵はどこにあるの?」


 いや、この質問はしなくてもいい質問だ。


 錠前を、鍵が無くとも開けられる水内が居るのだから、わざわざ聞く必要すらない。


 ここでこんな質問をしているのは、やはり手ずから殺害することに、内心ためらっているからだろう。


「豊田――」


 突然、豊田の呼吸が荒くなる。


 ハッ! ハッ! と強い息吹を吐き出し、相当に動揺しているのか、額に脂汗まで浮かべていた。


「動かないっ」


「なに、なんなの、いきなり」


「僕の、体が、動かないんだよぉっ」


 始めはなんの冗談だと思ったのだが、先ほどから拘束を解こうともがく様子も見せず、両腕にも一切の力が入っていない。


 嘘か本当か確かめようと、髪の毛を掴んで顔をこちらに向けたのだが、その際もまったく歯向かう様子はなかった。


 というか、無意識の反射行動すらない。


 手を離せば首はごろりと元の位置へと戻り、完全に力が入っていないように見えた。


 つまり、嘘はない。


 演技ということもない。


「なんだよこれ、なんだよこれ、なんだよこれぇ!」


 先ほどから口は流ちょうに動いているのだが、首から下は動く気配すらなかった。


 そうなると、考えられる可能性はひとつ。


「首の骨が折れたんじゃない?」


「な、そんな……」


 骨の中、特に首の骨の中には脳からの指令を各部に伝達する大切な神経が入っている。


 その大事な頸椎を骨折し、中の神経が傷ついてしまうとどうなるのか。


 脳からの指令が届かず、一切手足を自分の意思で動かすことができなくなってしまうのだ。


「なんで僕だけぇ!!」


 そんなこと、豊田も分かっているはずだ。


 私と水内はシートベルトで体が固定されていたし、エアバッグが衝撃から守ってくれていた。


 でも豊田は身一つで荷台に乗っていた。


 むしろ即死しなくて運が良かっただろう。


「あなたが今まで命を弄んできた報いでしょ」


 豊田は今まで散々ひとを殺してきたし、好き勝手に利用してきたし、食い物にしてきたのだ。


 ちょっとくらい罰を受けてもいいはずだった。


「た、助けてよぉ」


 情けない声を出す豊田を無視し、私はコンクリートの瓦礫を地面におろす。


 殺す必要は無くなった。


 むしろ、今の豊田を殺すことは情けにすらなるだろう。


「お断り。なんであなたを助けないといけないわけ?」


「僕は、僕はぁ、まだまだやりたいことがたくさんあるんだよぉ!」


 みんなそうだったはずだ。


 こいつに殺された人間、誰しもがそう思っていたはずなのだ。


 誰も進んで死にたい人間など居ない。


 おもちゃにされて喜ぶ人も居ない。


「せいぜい生き地獄を楽しみなさい。それがあなたにとっての贖罪しょくざいになるでしょ」


「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だっ! 僕は、僕はぁっ!!」


 きっとこいつはここで寝転がったまま時を過ごすことになるだろう。


 明日になれば黒蓮会――マフィアの仲間が訪れるけれど、もはや厄介者でしかなくなった豊田をどう扱うかは、私の知ったところではなかった。


「美亜ちゃんんっ!!」


 もう、会話をする必要性も感じられない。


 豊田をその場に打ち捨てて、水内を起こすために私は立ち上がった。

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