第32話 ニゲ ノ イッテ

 にへらっと豊田の相好が崩れる。


 私の考えを見抜くことが出来て嬉しい、といったところか。


 認めよう。


 二度目の奇襲を行うのはさすがに短絡的だったかもしれない。


 ただ、これですべてがダメになったわけでもなかった。


 なにせこちらが居るのは窓のすぐそば、しかも曲がり角。


 ほんの少し体を移動させるだけで射線から逃れることができた。


 でも、


「……嬉しい?」


 私が尋ねると、豊田はニタニタした笑みを保ったまま、これみよがしにゆっくりと時間をかけて窓を開ける。


「ここで逃げずに向かって来られる美亜ちゃんは大好きだよぉ」


「嬉しいか聞いてるんだけど、相変わらず会話のキャッチボールが出来ないみたいね。さっきので頭でも打った? ああ、元からか」


「強がるのはいいけどさぁ……」


 左手で保持していた猟銃を構え、窓から突き出して私に向ける。


 その銃口は、真っ昼間だというのに夜の闇よりも深い黒に塗りつぶされているように見えた。


「この距離だとそうそう外さないよ」


 彼我の距離は1メートルも離れてはいない。


 確かに私が体の位置をずらすより、引き金を引く速度の方が速いだろう。


 銃弾が到達する速度は言わずもがな。


 だが、それは私を殺す時の話だ。


 豊田は私を捕らえることを望んでいる。


 今すぐ私を殺すということはないはずだ。


「あなた、足は無事? 先回りしようとしたのは歩けないからでしょ」


「だからまだ逃げられるって? 美亜ちゃんは聞いていたはずだよねぇ。ここがどんな状況で、どういう場所か」


 ここは儀式とやらの生け贄を捕らえておくための場所だ。


 スマホも通じないし、歩いて逃げ出すことが不可能なくらいに深い山奥に存在している。


 そして明日には黒蓮会とやらが儀式のためにやって来るため、例え逃げたとしても前後から挟まれてしまう。


 もちろん素人が壊れた靴で山道を歩き、人里まで降りるのは不可能だ。


 まさに孤立無援。


 命が助かるためには、絶対の支配者である豊田に気に入られるしかない。


 しかしそれは、人間としての尊厳を捨てることを意味していた。


「だからなに。あなたが偉いわけじゃないでしょ。どうせあなたも歯車のひとつでしかない」


「有益な、欠かすことのできない歯車だけどねぇ」


 自尊心が高いのか、有益という言葉をやたらと強調した。


「黒蓮会が売りさばいている薬の原料は、そこの池で育てているんだよぉ」


 ドクタードリームだったか。


 自殺オフ会として集まった全員が眠らされた幻覚剤。


 効力のほどはよく分からなかったが、6から8時間もの長時間、人の意識を奪ってしまえる代物だ。


 使い道は山ほどあるだろう。


「組織は重要な資金源を見捨てない。警察も抱き込んでるから絶対に僕が法律で裁かれることはないんだよねぇ。だから助けが来る可能性はぁ、ぜろぉ!!」


「もう一度言うけど、だからなに。別に助けてもらえなかったからって、そんなのは当たり前だから」


 私は社会で生きているときも、学校で学生をやっていた時も、家庭で子どもだった時でも誰かから助けてもらった記憶はない。


 物理的な援助ならばされた覚えがあるけれど、それで心が満たされたことは一度もなかった。


 私の人生は、常にからっぽだった。


「だから私はなんとも――」


 更に言いつのろうとした時、どこからかエンジンの音が聞こえてくる。


 それは始めひとつだったが、そう時間が経たないうちにふたつに増えた。


「この音……車……か?」


 豊田が訝し気な表情で、視線を背後――音の聞こえて来た方向へと向ける。


 そちらには、確か私たちを拉致するのに使用した大型のバンと、豊田の父親である宗象しょうぞうが使っていた軽トラが停めてあったはずだ。


 音から察するに、その両方のエンジンが始動したのだろう。


 そんなことができるのは、現時点でたったひとりしかいない。


「もしかして――」


「もしかしてもなにも、水内さんに決まってると思うけど。キーを持っているのはあの人だし」


 私は玄関先で手に入れた三本の鍵、その全てを水内に預けていた。


 だから車がある方向に行けなかったのだ。


 水内が車を盗もうとしているところを見られないようにするために。


「お前っ」


「獲物を前に舌なめずりなんかしてるからこうなるんじゃない」


 私は軽く肩をすくめ、余裕の笑みを見せつける。


「私は別に見つかっても良かったの。あなたがこちらに来さえすれば。時間を稼げさえすれば、ね」


「お前ぇぇっ」


「あら、また仮面が剥がれてるけどいいの?」


「あんまり調子に乗るなよぉ……」


 その言葉は自分自身に返ってきているだろうと指摘するのも面倒くさい。


 調子に乗って周りを見なかったから、こうして足元を掬われたのだ。


「車のエンジンをかけた! それがどうしたっていうんだよぉ。君はこうしてここに居る! 逃げられない!」


「ええ、私は逃げられない」


 その事実を目の前にしても、私の心は水面のように穏やかだった。


「でも水内さんは逃げられる」


「はぁ!?」


 豊田が声を荒らげた瞬間、ザリッとなにか重い物が土を踏みしめる音が聞こえてくる。


 それはだんだんとこちらに近づいてきて――ある程度のところから離れ始めた。


「おいおいおいおい……まさかまさかまさかぁ……」


「ま、私たちは元々死にたくて集まったんだしね」


 ようやく音を発していた存在、大型のバンが、その後姿が視界に入ってくる。


 バンは陽の光の中、銀色に輝きながら家の前で右折すると、わだちに沿って走り出した。


 運転席のガラスを透して水内の横顔が見える。


 彼はこちらを一顧だにすることもなく、ただ前だけを見て逃げ去っていった。


「ここで見捨てて逃げるのかよぉ! 本気で!? 信じられない! そういうヤツだったのかよぉ!」


「あなたがそれを言うんだ」


 つまらない。


 呆れた。


 せっかくのゲームを台無しにされた。


 そんな批難と怨嗟に満ちた声をあげる。


「彼の目的は始めから妹の救出だった。それが達成できないと分かったのだから、あとは逃げるだけでしょ」


「美亜ちゃんが居るだろぉ!?」


「必ずしも私の命は助ける必要はない。私たちは自殺するために集まったってさっき言ったでしょ」


 私の勝利条件は、生きたい人が生き残ること。


 次に豊田の父親を殺すこと。


 それから、豊田の思い通りにさせないこと。


 最後のひとつを除いてそれらは達成された。


 これ以上は望み過ぎだろう。


 私は覚悟を決めると、牛刀をその場に投げ捨ててから両手を頭の上にあげる。


「そういうわけだから、早く撃ち殺してくれない?」


「…………」


 あれほどあった豊田の熱が私の言葉で一気に冷めていく。


 彼は無理やり誰かを従わせることが好きなのだ。


 抵抗する相手を組み伏せ、犯し、服従させることで、歪んだ支配欲を満足させる。


 獲物は抵抗するからこそ意味があり、ただ這いつくばって逃げ回るだけでは面白くない。


 豊田はそういう性根の捻じ曲がった男であった。


「早くあがれ」


 腕を伸ばし、私の側頭部を猟銃の先で突く。


「窓から入れ。ぐちゃぐちゃになるまで犯してあげるぅ」


「私が従うメリットが無いんだけど」


「いいから僕に従えよぉ! 両手両足を切り落としてダルマにしてやってもいいんだぞぉ!」


 短くため息をついてから、渋々豊田の命令に従った。


 窓のサッシを掴んで体を引き上げ、地面から1メートルほどのサッシに足をかける。


「早くしろぉ!」


 その段階で忍耐が尽きたのか、豊田は私の前髪を掴むと部屋の中へと引きずり込む。


 頭髪がぶちぶちと音を立てて千切れようが、窓から落下して体を床に打ち付けようがおかまいなしであった。


「立って歩け! 早く僕の部屋に行くんだ。そこでじっくりと調教してあげるからさぁ」


「…………」


 背中に銃口が押し当てられる。


 この銃の引き金はとても軽い。


 言うことを聞かなければ、私のお腹に穴が空くだろう。


「はいはい」


 適当な返事をしつつ、歩き出す。


 部屋を出て、廊下を進み、物が散乱している玄関を通り過ぎる。


 そして豊田の部屋の前にまで来た時、


「ねえ」


 私は口を開いた。


「変だと思わない?」


「何がだよぉ」


 豊田の息は荒い。


 先ほどから怒鳴り散らしているというのもあるが、片足を私に潰されたのにも関わらず、ろくな手当をせずに歩き回っているのも大きいだろう。


「私とあなたはそこそこに時間をかけて争ってた。それなのに、水内さんはさっきようやく車で逃走した」


「……だから、何が言いたいんだってのさぁ」


 私はふっと鼻で嗤い、軽く顔を傾ける。


「ああそれから、私と悠ちゃんが歩いて逃げてた時、水内さんはこの家に残ってたんだよね」


「…………」


「5時間以上はあったと思うんだけど、なにもしてないと思う?」


 私は聞いている。


 彼が何をしたのかを。


 そして、彼がただ逃げ出すような人でないことを。


「ガソリンをビニール袋に入れて、家の下に設置したんだって。それから……見える?」


 私はにやついた笑みを浮かべながら、首を回して豊田に私の表情を見せつける。


 そう、死んでも構わない私が、なぜわざわざ豊田の命令に従ったのか。


 それにはこういう理由があったのだ。


「ここに糸が張ってあるの」


 床から30センチ、廊下の曲がり角、その直角になっている端の部分から反対側の壁にかけて、タコ糸が貼り付けてあった。


 もちろん、こんなものは先ほどまで存在していなかった。


 水内が仕掛けて行ったのだ。


「これ、どうなると思う?」


 その仕掛けに、私の足が触れていた。

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