第31話 ラントウ

「…………」


「…………」


 豊田と私の視線が交差する。


 互いに同じ凶器の存在に気付いたのだ。


 そして、馬乗りになっている以上、私の方が早く手にできることも。


「――――っ」


「おっとぉ!」


 すぐさま肉どころか骨すら絶つことのできる巨大な包丁の柄に手をかける。


 だが、振り上げることは叶わなかった。


 先制されることを知った豊田は、牛刀ではなくそれを掴む私の手首の方を押さえたのだ。


「ちょぉっとお転婆が過ぎるんじゃないかなぁ。こんな危ないものに興味を持っちゃあいけないよぉ」


「遠慮しないで。今まで色々やってくれたお礼だから」


 豊田の手は、まるで万力のようにびくともしない。


 でも、片手では及ばなくとも両手なら。


 牛刀を豊田の体へ押し付けながら、左手で豊田の腕を引きはがそうと試みる。


「いやぁ、突き刺すのは男の僕がやるよぉ。美亜ちゃんはおとなしく受け入れてよぉ」


「そういうことを言うから嫌われるって自覚ないの?」


 じりじりと刃が豊田のわき腹に近づいて行く。


 しかし、豊田もただおしゃべりに興じているだけではない。


 空いている右手で銃把を握り、銃床を私の側頭部めがけて叩きつけてくる。


「――このっ」


 左ひじを上げて豊田の打撃を防ぐ。


 木製のストックが肘に当たった瞬間、ジンッと鋭い痺れが肘から指先へと駆け抜けていき、思わず左手が緩んでしまったが――。


「今は男女平等の世の中だからっ」


 代わりに豊田の意識が逸れたおかげで、牛刀を持ち上げることに成功した。


「あなたも刺される立場を経験したら?」


 手首を回し、牛刀の刃を豊田の腕に押し当てる。


 握力だけで肉を絶つほどのことは出来なかったが、刃が皮膚をほんの数ミリだけかじり取った。


「あ~~はぁはぁはぁ。美亜ちゃんにもこれ、してあげようかぁ?」


「アンタは自分がされて嫌なことを他人に強要してきたくせに」


 自分でも口角があがったの感じる。


 そして、豊田も。


 命の削り合いを楽しんでいるわけではない。


 死が舞い、悪意が踊るこの空間に居ることで、私の頭がおかしくなり始めているだけだ。


 竜を追う者は竜になる、なんて言葉は誰の言葉だったか。


「どれだけいたぶられたら、アンタは泣き叫ぶのか知りたくなってきたんだけどっ」


「んぐっ」


 右親指を包丁の背に当てて、更に腕の肉をぎにかかる。


 左手首の凹凸から入った刃が、皮膚に食い込み、削り進む。


 1センチ。2センチ……。


 まるで野菜でも剥いているかのように、肌色の皮膚片が刃の上を滑っていく。


 その後を追うように赤い血が溢れ出し、牛刀から私の手を伝って床に落ち、微かな水音を立てた。


「あはぁあはぁあはぁ……。似た者同士、僕らはお似合いかもねぇ」


「冗談っ」


 今度は銃身が弧を描いて脳天に振り下ろされる。


 ただ、体勢が体勢だけに、勢いそのものは弱々しく、当たったところで大した痛みはなかった。


 が――――。


「――かっ」


 突如として脳そのものに手を突っ込まれて揺さぶられたような感覚に襲われる。


 視界が歪み、鼻孔をツンと刺激的な臭いが駆け抜けた。


 こんな状況にもかかわらず、豊田が発砲したのだ。


 私の背後には鋼鉄製の扉がある。


 跳弾でも起これば豊田だって危険が及ぶ。


 そんな賭けに出たということは、奴も追い詰められている証左である。


 私は更に豊田を傷つけるべく手を捻って刃を押し付けた。


 しかし、するりと豊田の腕が逃げていく。


「ま――」


 舌がもつれて言葉をうまく紡げない。


 私の神経が乱れた一瞬の隙をついて、豊田が私の下から抜け出てしまう。


 ――逃がさないっ。


「――のぉっ!」


 脳がかぁっと熱くなり、言いようのない衝動が私の背中を押した。


 獣のように床を四つ足で這って進み、今度こそ牛刀を豊田の背中めがけて振り下ろす。


 当たれば致命傷という一撃は、しかし、すんでのところで避けられてしまう。


 代わりに豊田の左ふくらはぎを捕らえて寸断する。


 ザクリという重い手ごたえのすぐ後に、刃が弾かれるような固い感覚が伝わって来た。


 これが、肉を裂いて骨まで達した感触なのだろう。


「いい加減にしろよぉっ!」


 鼻っ柱に一発、強い衝撃を受けた私は思わず顔をのけぞらせる。


 馬かなにかのように、豊田が後足あとあしで私を蹴り飛ばしたのだ。


 男の力による手加減なしの一撃は、意識すら吹き飛ばされそうな威力を持っており、牛刀を手放さなかったことを褒めたいくらいだった。


「僕は死体相手でも構わないんだからねぇ!」


 顔をあげた瞬間、豊田が銃を構えようとこちらに振り向いている姿が目に入る。


 攻めるべきか、退くべきか。


 問題は猟銃の中に弾が残っているかどうかだ。


 ドアノブを吹き飛ばすために一発。


 そして先ほど私を怯ませるために一発。


 猟銃は上下二連の後込め式であるため、計算上は既に撃ち切っているはずだ。


 でも新たに装填していた時間は――――あった。


 ならば今は――。


「くっ」


 逃げるべきと判断した私は、振り向きざまに玄関の扉へ体当たりを敢行する。


 細長い把手とってを体全体で押し、扉を開いて外へと転がり出た。


 それとほぼ同時に乾いた銃声が鳴り響き、扉と壁のすき間がわずかに広がった。


 やはりまだ銃撃できたのだ。


 でも今は出来ないはず。


 薬室の銃弾は撃ち尽くしたはずだ。


 ならどうするべきだろう。


 もう、本当に選択の連続で嫌になる。


 しかも選択を間違えば、死亡。


 否、死よりもなお悲惨な目に合うかもしれない。


 地面を見れば影は玄関へ向けて伸びていた。


 空にのぼった太陽がほぼ南に来ている証拠だ。


 なら――逃げる。今は逃げて、すぐに仕掛ける。


 私は手で地面を突き放して勢いよく立ち上がると、水内の居る豊田の部屋とは真逆の方向――父親である宗象の部屋があった方角へと走り始めた。


「待てぇっ!」


 背後で何やら豊田の声がするが、無視してひた走り、家の角を曲がる。


 そこで私はピタリと足を止めた。


 影は……大丈夫。


 私が壁に張りついても、玄関先から走ってくるであろう豊田の視界に入ることは無い。


 また奇襲できる。


 確信を得た私は牛刀を左手に持ち替え、背中を固い壁に預ける。


 深く息を吸い込んで吐くを繰り返して呼吸を整え、気持ちを落ち着けて感覚を研ぎ澄ます。


 それで準備は完了した。


 あとは豊田が来るのを待つだけだ。


 狙うのは損傷した場合、人体で最も死亡率が高いと言われている首がいいだろう。


 奴の身長は160程度であり、私とあまり変わらない。


 少し斜め上を狙って牛刀を振るえば当たるはずだ。


 豊田の命を奪える、はずだ。


「…………さっきから人を殺すことばっかり考えてるな」


 思わず愚痴とも取れるぼやきが口を突いて出る。


 私は一昨日……より正確には昨日までただのOLだったはずだ。


 自殺を考えこそすれ、他人を殺すことはおろか、傷つけることすら忌避していた。


 なのに今はこのざま。


 人を殺してまで生きようとしている。


 それでいて、なんのために生き長らえようとしているのか分かっていないのだ。


 せいぜい、こんな最悪な生き方を他人から押し付けられるのが嫌だから、程度の理由しか持っていない。


 それが人間の命と等価なのかと聞かれたら、私には返せる答えが見当たらなかった。


 もちろん、分からないからといってこの行動を止めるつもりはさらさらないが。


「……まだ来ない?」


 少し変な方向に思考を飛ばしてしまったことに気付き、自分を現実に引き戻す。


 銃に弾を込めなおして、靴を履いて外に出る。


 たったそれだけのことに時間がかかりすぎている。


 私はまだ豊田が玄関の扉を開ける音を聞いてはいない。


 なにかがおかしいと、先ほどまで意識を向けていた方とは逆。


 私が体を預けている壁に設けられている窓の方へと視線を向けて――。


「――――っ」


 窓ガラスに顔を押し付けている豊田と目が合った。


 合ってしまった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る