第30話 ワキアガル サツイ
「水内さんは絶対に生き延びて……」
その後の言葉は豊田に聞こえないように、そっと水内の耳元で囁いてから身を離す。
「信じてるから」
願いだけを残し、再び豊田とドア越しに対峙する。
裂け目から見える豊田の瞳は、嫌らしい喜悦の色に濁りきっていた。
「あらぁ~、僕のお嫁さんと会っちゃったぁ? 先輩に挨拶はしたかなぁ?」
「クズ」
どうやって命を落としたのかは知らないけれど、死後もその体を弄ばれるなんて、許されることではない。
「あららぁ~。じゃあ、お義兄さんはどうかなぁ」
「やめろっ」
無邪気で無自覚な、吐き気を催すほどの悪意が水内の背後に忍び寄る。
「手前のベッドでお昼寝してるのがぁ、
「このクソ野郎っ!」
彼女は
それは彼女と、そして兄である水内
「結婚してるんだから当然だろぉ」
水内は動かない。
家族ゆえの直感か。
はたまたどこかしらに面影を見つけたのか。
きっと彼は一目で自分の妹であると分かったのだろう。
壊れてはいないはずだ。
絶対に生きることを諦めてはいないはずだ。
私は信じている。
「アンタみたいに最低なヤツなんか見たことがないっ」
私は扉を殴りつけ、裂け目に向けて罵声を浴びせる。
今ここで豊田を物理的に傷つけることは叶わない。
でもせめて、心にだけでも……!
「汚物や汚泥、腐った糞尿にも劣る存在だっ! お前みたいな奴はこの先ずっと何かを穢し続けるだけ。この世界に生きてちゃいけない存在だっ! 在るだけでこの世界を冒涜してる、絶対悪だっ!!」
あらん限りの言葉と想いを並べ立て、必死に豊田という存在そのものを否定する。
こんなにも人を憎んだのは私の人生で初めてだ。
ここまで誰かに対して殺意を抱いて、害しようと思ったのも初めてだ。
そのくらい私は豊田のことを嫌悪していた。
「あらぁ?」
ただ、私の言葉は彼に対してなんの痛痒も与えられていなかった。
瞳に宿る喜悦の色が、更に深くなっていく。
「あはっあはっあはぁ……。美亜ちゃんはそんなに僕のことを想ってくれてるんだねぇ」
「頭おかしいんじゃない」
またひとしきり嗤ったあとで、ダンっと扉が鳴り、豊田の瞳がぐっと圧を増す。
「僕はねぇ、そういう
「黙れっ」
これ以上聞いていられなかったし、なによりも水内に聞かせたくはなかった。
私は叫ぶと同時に右手で
「つっ」
だが、私の行動は読まれていたのか指先は何に当たることもなく、虚しく空を切る。
それだけでなく、ささくれだった木片が手の甲の皮膚を裂き、肉に突き立ってしまった。
「だいじょうぶかなぁ? 傷物にするのは僕だからねぇ」
「アンタに心配されなくてもっ」
すぐさま手を引っ込め、刺さっている木片を爪先で取り除く。
……失敗した。
冷静にならなきゃ私の目的は遂げられない。
感情は行動するための原動力に留めておかなければならないのだ。
すぅっと小さく呼吸をして――。
「あぁ~、美亜ちゃんのぉ~血だぁ~~。あはっあはっあはっ」
豊田が気色の悪い笑い声をもらした後、私の血に向けて口を近づけていく。
茶色い木片の先に付いた赤い染みの上を、それよりも真っ赤な舌先がゆっくり、ねっとりと這いずり回る。
「美味しぃよおぉ~~」
あまりにおぞましい行動に、ぞわぞわっと鳥肌が立つのを感じた。
恐らくはわざとこうやって私の感情を逆なでしているのだろう。
それから、反応そのものが楽しくて仕方がないなんて子どものような理由も察せられた。
「…………」
落ち着けと、胸中で何度も何度も呪文のように唱える。
大丈夫、私はコイツを殺すことが出来る。
そうして最後に笑い飛ばせばいいのだ。
「――よし」
この部屋に逃げ込んだのは悪手だった。
逃げることを考えて、奈緒の息子である翔が閉じ込められている蔵の鍵を手に入れようとしたのだが、そんなものは豊田を殺したあとでゆっくりと探せばいい。
私が今手に入れるべき物は、豊田を殺すための道具だった。
そうなれば豊田は相手にすることが間違いだ。
私は思考を切り替え、180度体を回転させるとパソコン机に走り寄った。
「ん~?」
豊田の反応は不気味だったが、構わず右側一番上の引き出しを開ける。
文房具かなにかあればと思ったのだが、私の予想通りにボールペンやサインペンといった筆記用具が並んでいた。
その中にはハサミもあったのだが、到底武器には使えないだろう。
一番マシなのは先のとがったボールペンくらいかと判断して、ボールペンを取ってキャップを外し、先端を露出させる。
何も無いよりかはマシだろう。
「美亜ちゃ~ん?」
ボールペンを逆手に握り、部屋の窓を開ける。
ここで私のしたいことを理解したのだろう。
もう何も言って来なかった。
背後に銃声を聞きながら、私は窓から身を乗り出して外へと躍り出る。
これで都合、三度目の脱出だ。
「豊田は――?」
後ろを振り返って部屋の中を伺う。
部屋の中には水内がひとり、両手を床につけて俯いているだけで、豊田の姿はなかった。
先ほどの銃声は、ドアノブ辺りが吹き飛ばされて大きく穴が空いているため、強行突入を狙ったものだろう。
ただ、最初に詰めておいたストッパーのお陰で部屋への侵入は失敗したようだが。
「よしっ」
次はどうするべきかと頭を巡らせると、玄関の方からガチャガチャと鍵を回す音が聞こえてくる。
それがなんとなく忙しなく聞こえる理由は、私が車のキーを手に入れたことを豊田も知っているからだ。
逃げられると思い、部屋の中で茫然自失となっている水内を放置してまで私を優先するほど焦っているのだろう。
しかし、私の狙いは逃げることじゃあない。
殺すことだ。
足音を忍ばせて扉の真ん前に立って待っていると、ふたつの錠が外れ、扉がこちらへと迫って来た。
今、そこに奴が居る――。
扉の縁に指を引っかけ、思いきり開くと同時、
「やあぁぁぁぁぁっ!!」
豊田めがけて襲い掛かる。
「くっ」
さすがに私がここに居るとは思っていなかったのか、豊田が焦りを見せる。
猟銃を私に向けるには、時間が足りなかった。
「死…………ねぇっ」
眼球めがけて思い切り振り下ろした腕は、しかしギリギリで押しとどめられてしまう。
しかし、体勢、勢いともにまだ私の方が圧倒的に有利。
重力も味方につけ、両手で握りしめたボールペンを押し付けていく。
「美……亜……ちゃん、さぁ……!」
「私を名前で呼ぶなっ」
「いやだ――」
豊田が凶器の切っ先から逃れようと顔を背けたところで重心がズレてしまったのか、ずるりと足を滑らせ、背中から転倒してしまう。
完全に体重を押し付けていた私も、豊田ともつれあうようにして前方へと倒れ込んでしまった。
ボールペンの切っ先が豊田の服に引っかかり、メキリと嫌な音と共に半ばあたりでへし折れる。
だがこれは、好都合だった。
折れたプラスチックはボールペンの先よりも鋭い。
数回ならば皮膚を裂くだろうし、眼球程度、楽に貫いてくれる。
刺した後にボールペンの頭をぶん殴れば、確実に脳にまで達し、命を奪えるはずだった。
「ならっ」
右腕を振り上げると、
「死ねぇっ」
渾身の力を込めて叩きつける。
プラスチックで出来たねじくれた刃は、咄嗟に庇った豊田の左腕に突き刺さり、4センチほど傷をつけたところで断末魔をあげて役目を終えた。
なにか武器は――と意識を逸らしたところで、左頬で衝撃が弾ける。
殴られたと気づいたのは、二撃目の拳が目の前にまで迫ったからだった。
必死に顔を逸らしてなんとか鼻への直撃は免れたのだが、またも左頬を殴られてしまう。
……殴る?
つまり、豊田は現在から手ということで、だけどこいつは武器として使える獲物をいくつか持っていたはずで――。
ほんの少し視線を右下に向けるとそこには、刃渡り3、40センチはあろうかという牛刀が、鈍い光を放っていた。
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