第29話 ゲンジツ

「奈緒さんっ!!」


 奈緒の着ている白い衣服のど真ん中に、赤い花が咲く。


 声にならないくぐもった音が彼女の肺腑から絞り出され、それは続く激流のような咳によって押し流される。


 即死はしなかった。


 それだけ。


 彼女の未来は、仮にも夫を名乗る者の手によって、閉ざされてしまったのだ。


「……静城、さん」


 奈緒が持てる最期の力を振り絞って、豊田に組み付く。


 銃を胸元に押し付けて上向かせ、全身を使い、もたれかかるようにして豊田の動きを止める。


 彼女は命をして私たちが逃げるための時間を稼いでくれているのだ。


「翔をっ」


「絶対に!」


 もう彼女のために私が出来ることはひとつしかない。


 約束して守ると誓い、安心させてあげるだけだ。


「頑張ってねぇ~」


 豊田はにやにやと笑いながら他人事のように私へ声援を飛ばしてくる。


 こいつからすれば、きっとこれは楽しいゲームでしかないのだろう。


 ひとりだけ銃を持ち、一方的にいたぶれる絶対的な立場なのだから。


 そのムカつく顔をいずれ吹き飛ばしてやると心に刻みつけ、部屋を後にした。


「急いでっ」


「どうするっ?」


 すぐそばに見える水内の顔は、苦痛に歪んでいる。


 あれほど殴打されたのだから、どこかしら骨を折るなどしていてもおかしくはないだろう。


 部屋を出て数メートルほどのところに玄関があるが、この状態で走って逃げられるわけもない。


 なにかしら移動手段を手に入れて逃げるか、銃を持っている豊田を殺すかしなければならなかった。


「先に豊田の部屋にっ」


 申し訳ないけれど、水内の肩を下ろして玄関先に急ぐ。


 外への扉を正面に置くと、右側に天井まで届くクローゼットが据え付けられ、左側には大きな鏡が飾ってあった。


「鍵……鍵は……」


 焦りからか、我知らず呟いてしまう。


 恐らく玄関や車の鍵が置いてあるだろうと思ったのだが、目に見える位置には存在しなかった。


 適当にクローゼットを開けて、中のものを雑に落としていく。


 靴、ボール、釣り竿、傘、首輪等々、雑多な物の奥に意味深な台座に据え付けられている鴨の置物が置いてあった。


「……こんなところで防犯もクソも無いでしょうに」


 いや、内側からの逃走を避けるためには多少なりとも有効かと忌々しく思いつつ、鴨の置物に手を伸ばす。


 すると鴨は簡単に台座から取れ、その下に私が望んでいた通りのものが三つも置いてあった。


「サービスのし過ぎでしょ」


 どれがどれの鍵かは分からないため、全てを掴んでポケットに突っ込むと、そのまま踵を返す。


 ドアが空きっぱなしになっていた豊田の部屋に走り込むと、水内の背中を部屋の中に確認してから勢いよく閉める。


「鍵は……ないか」


 豊田の部屋にはカギがついていない。


 閉じこもることは不可能だった。


 まあ、部屋の鍵なんて大した足止めにもならないだろうが。


 せめてもの時間稼ぎにと、ストッパーをドアの下に噛ませ、まだ持ったままだった鴨の置物をドアノブに叩きつける。


 丸いドアノブが歪み、ほんの少しだけ下方向にかしぐ。


「水内さんは蔵の鍵を探してっ」


 振り返らないまま告げて、ドアノブを壊すことに専念する。


 5度目の殴打でようやくドアノブが外れ、基部が姿を晒した。


「これで……」


 ドアの芯棒を抜き取り、その場に捨てる。


 これでドアノブを回してもラッチボルト――ドアを壁に固定しておく部品――が動かずドアは開かない。


 例えドアノブを銃で吹き飛ばされたとしても、ストッパーがしばらくは侵入の邪魔をしてくれるはずだ。


 本棚を倒したりしてドアを物理的に抑えるのはさして意味がない。


 あれは力づくで押せば、簡単に開いてしまうのだ。


 映画は映画であり、現実とは違う。


 あれは派手な動きや大きな障害物で、止めていると観客に分かりやすく説明するための小道具にすぎないのだ。


「水内さん、あった!?」


 鍵が見つかれば、窓から逃げ出せばいいと今後の計画を頭に描きながら振り向くと――。


「…………っ」


 膝をつき、力なく項垂れた水内の背中が目に飛び込んできた。


 なにをしているのかと問いかけようと口を開き――悟った。


「酷い……」


 豊田の部屋は、彼にしては簡素な内装をしていた。


 ベッドがふたつ、ヘッドボードを壁にくっつけるようにして並べられ、反対側にはタワー型のデスクトップパソコンが専用の机と共に備え付けられている。


 それ以外に大きなものと言えば、せいぜい揺り椅子とクローゼットくらいで、父親のほうがまだ色々な物が置いてあるだろう。


 だが、異常さは豊田の方が圧倒的に上だ。


 なにせ揺り椅子と手前のベッドの上には、フリルまみれで少女趣味丸出しのゴスロリ服で飾られた白骨死体が置かれていたのだから。


「……水内さん」


 これらは恐らく、豊田の言っていた奥さんだろう。


 今足止めをしてくれている奈緒を入れたらちょうど三人で数も合う。


 水内は、そのことに気づいたのだ。


 ここに飾られている死体の片方が、彼が探し求めていた妹の死体であると察してしまったのだ。


 だから彼は足を止めてしまった。


 今までの想像とは違って現実を見せつけられ、絶望のあまり心が折れてしまったのだ。


「あ……み……ど……り……」


「――だい」


 ダメだ。


 今水内を慰めてはダメだ。


 思わず差し伸べそうになった手をぎゅっと握りしめて引き戻し、歯を食いしばって慰めの言葉が口を突いて出ないように我慢する。


「――――っ」


 本当に彼を助けたいのなら、動かなければならない。


 感情を抑え込み、冷静に策を考え、実行する。


 必要なのはカラスのような悪知恵と、蛇のごとき狡猾さだ。


 ハトのような純真さは必要ない。


 求めるべきは生存への道ただひとつ。


「水内さん、目を覚ましてっ!!」


 私は水内の前に回り込むと、彼の頬を両手で挟んで持ち上げる。


 水内の瞳には一切の光が宿っておらず、完全に意思というものを失っていた。


 そんな水内に顔を近づけ、怒鳴りつける。


「あなたはなにをするためにここに来たの? 妹さんを見つけて生きて一緒に帰るためでしょう?」


 生についてなど、自殺を望んでいた私が語るなんてちゃんちゃらおかしい。


 でも、死に憧れた私だからこそ見えることがある。


「ならあなたは生きなきゃいけないのっ。ここで死ぬなんて、絶対に妹さんも望んでないっ!」


 家族のために自分の命を投げ捨てようとしたことは、それだけ生きたいという証なのだ。


 それだけ命が大切であると知っている人なのだ。


 だからこそ、水内には生きる価値がある。


 生きるべき人なのだ。


「お願い……生きてっ」


 ああ、認めよう。


 私はこの人の生き方に憧れた。


 稀有な在り方を羨ましいと思った。


 純真な彼を好ましいとさえ感じていた。


 だから生きて欲しい。


 命を大切にして欲しい。


 こんな運命を乗り越えて、生き続けて欲しい。


「お願いだから……!」


 そう、切に願った。


「私のためにもっ」


 知らず知らずのうちに体が動き、私は彼の額に自分の額を合わせていた。


 男女間の恋愛感情ではないだろう。


 母性でもないはずだ。


 同情なんかでは絶対に無い。


 想像でしかないけれど、懸命に同じゴールを目指す、チームメイトに対する一体感。


 それが一番近い気がした。


「水内さんっ」


 近すぎるから、視界にあるものすべてがぼやけて見える。


 時間が迫ってきているから、緊張で呼吸が浅く、短くなってしまう。


 怖いから、私の体は震えている……はずだ。


 そうに決まっている。


「ねぇ……!」


 私が何度目かの問いかけをした時、背後でバリっと音がする。


 袖で目をこすってから水内の肩越しにドアを見ると――


「はぁい? なにしてるのかなぁ~?」


 新たに刻まれたドアの裂け目から、豊田の瞳がギョロリと覗いていた。

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