第28話 ナオ
「くっ……ふくっ、ひっぐっ……」
すすり泣きではない。
しゃっくりとも違う。
嗚咽ですらない。
呼吸しようとしても、大気がなにか大きな固形物であり、喉の奥に引っかかって吸うことが出来ないとでもいうような引きつり方。
ある種異常な音が、豊田から聞こえていた。
分かる。
この音の意味が、私には分かる。
解放されて、自由になって、気が狂うほど嬉しくて、嬉しくて嬉しくて嬉しくて嬉しくて。
自分ではどうしようもないほどの衝動が、体の内で渦巻いている。
それが人間の肉という枷がある状態では表現できないから、壊れた精神の殻から漏れ出ているのだ。
「くかっ、くかかかかか…………けひゃひゃひゃひゃひゃっ!! なんだこれなんだこれなんだこれっ! 最高っ! 最高に最高だよっ!! こんなに気持ちいいならもっと早くに殺っておけばよかった! なんで今までためらってたんだよ、僕! 邪魔な奴が居なくなって、自由になれて、好きにできる! こんな楽しいことはないよ! こんなの射精の100倍は気持ちいいじゃないか!」
私はけたたましい嗤い声が響く中、そっと合図を送る。
あれほど痛めつけられたというのに、水内はまだ意識があるようで、懸命に体を起こそうとしていた。
そうだ。
今なら逃げられる。
そのチャンスがあるはず――。
「ああ、動くなよぉ。お前は一応生け贄なんだからさぁ……くぅあはははははははっ!!」
ぐりんっと異様な角度で首が傾き、這って戸口まで移動しようとしていた水内を睨みつける。
ああ、いい気持ちだろう。
今この空間の支配者は豊田だ。
何もかもすべて、彼が思うがまま。
好きに殺し、好きに奪う。
まさに神のごとき絶対的な存在なのだ。
「ねえねえ、下が汚れちゃったからさぁ。美亜ちゃんが口で綺麗に掃除してくれるかな――」
豊田はねめつけるような目で私を見て、凍り付いた。
ああ、ようやく気付いたのか、この男は。
ずいぶんと鈍感……というよりは絶頂感も相まって、完全に警戒されていなかったのだろう。
自分の一番目の奥さん――奈緒の存在が。
少し考えれば、彼女が裏切っている可能性に思い至れただろうに。
「私の口じゃなくて、そっちの
豊田が警戒していたのは、私と水内の動きだけだ。
だから視界に私たちが入っているだけで安心していた。
まさか、私の合図で動き出した水内に注視したところを、奈緒が死角を移動して、宗象が落とした猟銃を拾っているとは思わなかったのだろう。
「ねえ、奈緒さん?」
私が声をかけると同時、奈緒が猟銃を構えて豊田の背中に突きつける。
自然と豊田の背筋は伸び、一瞬で表情が引き締まった。
「蔵の鍵を渡してください」
奈緒の声は、静かで、しかし強い決別の意思が籠められていた。
今、このタイミングを逃せば、彼女とその息子が解放されるチャンスはいつになるか分からない。
もしかしたらこれから先、一生訪れないかもしれないのだ。
自分のため、なによりも息子のために、奈緒は決意を固めていた。
「蔵ぁ? ああ、アレかぁ。お前あんなの気にしてたの?」
「私の息子ですっ! あんなのだなんて言わせませんっ!!」
奈緒の手が微かに震えている。
今まですべてを支配してきた存在への反逆に、恐れを禁じ得ないのだろう。
だが、奈緒は立ち上がってくれた。
彼女が居なければ、協力してくれなければ、きっと私はまだ地下牢に囚われていただろう。
「早く渡してくださいっ」
「……いま手元にないねぇ」
「なら一緒に行くので取りに行きましょう」
移動するのならば一緒に居なければ危ない。
私は床に手をついて痛みを堪えている水内の側に行くと、「肩を貸すから」と断り、返事を待たずに無事な方の腕の下に潜り込む。
「……君が、そんな約束をするなんて聞いてなかったよ」
「…………」
水内が言っているのは、豊田と私がした、一晩付き合うという約束のことだ。
もちろん、私は別に体を許すつもりなどなかったのだが、それでも水内に言うのはなんとなく
「あなたが騙されてくれたほうが、バレにくいと思ったの」
「ええっ!? 美亜ちゃんは嘘ついたってことぉ?」
思わず舌打ちしそうになったが、水内の手前、胸の内だけに留めておく。
水内の重い体を彼自身と一緒になって持ち上げる。
ごめん、なんて謝罪されたけれど、一番危険な役を受け持ってくれたのだから、頼んだ私が責められこそすれ、謝られるいわれはなかった。
私もごめんと小さな声で謝罪を返すと、入り口へ向かって歩き出す。
「嘘をつくつもりはないけど」
「この状況で?」
「ええ。放置プレイを楽しんで」
というより、私はいっさいの禍根を絶つつもりだ。
奈緒の息子である
いつか私が死んだ時、豊田とは地獄あたりで再会することになるだろう。
「なるほどぉ~。つまり約束を守るつもりはなかったということだねぇ」
「別に、あなたがおしゃべりやゲームみたいな、人畜無害な過ごし方をするのならいくらでも付き合ってあげるけど」
しかしこの男は違う。
人畜無害の逆。
この世界にとって害悪でしかない。
私とは決して相いれない存在だった。
「うんうん、嘘って事だねぇ」
入り口横の壁に手をついて、先に水内だけくぐってもらう。
「あなたがそう思うなら――」
「ところでさぁ。安全装置くらい外しなよぉ」
一瞬、肝が冷えたが、安全装置の話ぐらい奈緒にはしてある。
外しているはずだ。
「豊田。映画の見すぎじゃない? 現実にはそううまく行かないから」
「違うよぉ。猟銃の安全装置はぁ」
気になって首だけ動かして後方を確認すると、ちょうど奈緒の手から猟銃がひったくられているところだった。
「二段階なんだよねぇ」
「……そん……な」
奈緒の顔面は元から白かったが、更に血の気が引いて蒼白になってしまっている。
その顔が、自分は引き金を引いたのに撃てなかったと、物語っていた。
「安全装置は一度引くだけじゃっ!」
「きゃぁっ」
豊田が銃把を奈緒の頬に叩きつけて殴り倒す。
元から豊田の暴力に曝され続けた奈緒は、抵抗する余地すらなかった。
「ダメなんだよね。こうして左右につまみを動かして、上下どちらから発砲するのかを決めなきゃならないんだよぉ」
カカカカッと、気持ちの悪い哄笑を響かせる。
これは勝利を確信した笑い。
逆転を喜ぶ嗤い。
そうだ。
今、私たちは、負けたんだ。
ほんの一瞬の隙を突かれて、強引に状況をひっくり返されたんだ。
心臓が跳ねる。
嫌な汗が頬を伝い、自然と呼吸が浅くなる。
油断しなければよかった。
今すぐに殺してから鍵を探せばよかったんだと後悔をしても遅きに失している。
なら、どうするべきだろう。
この状況、三人……は無理だから、ふたりで一気に襲い掛かれば、私と奈緒のどちらかが死ぬ代わりに猟銃を奪い返せるかもしれない。
――なんて、夢物語だ。
豊田の力は強い。
下手をすれば水内よりも強い。
さきほど水内が豊田の父親である宗象を抑え込むことが出来たのは、奇襲と体格差あってのことだ。
私と奈緒のふたりが正面から突っ込んでは、片方がまず銃で撃たれ、もうひとりが殴り飛ばされて終わりだろう。
どうすればいい。
どうすればみんな助かるのか。
どうすれば再度盤面をひっくり返せるのか――。
「逃げてくださいっ!」
奈緒があげた、悲鳴交じりの声で我に返る。
見れば、彼女はもう豊田に飛び掛かっていた。
しかし、左の裏拳を頬に喰らって張り倒されてしまう。
そして――銃声が無情にも鳴り響いた。
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