第26話 ヒトジチ

「猟銃が保管してあるロッカーのカギを出して」


 私は計画通り、奈緒の首筋に台所から拝借した包丁を突き付ける。


 人の命を盾にして要求を通すなど、人倫にもとる行為だ。


 だが、それは私が今いるこの場所も同じ。


 いや、それ以上の悪徳であった。


「はやくっ」


 家の北東に位置するその部屋は、防水の為か真っ白なタイルを全面に貼り付けてある。


 ものを吊るせるようにと壁から対面の壁にまで竿が渡され、壁からはシャワーのホースが伸びている。


 広さにして4メートル四方で、この屋敷に存在する部屋としては平均的な広さだった。


 総じて、少し広めのシャワールームといったところだろうか。


 人間の死体が吊り下げられていなければ。


 私が入り口の前に立っているこの部屋は、解体部屋だ。


 奈緒の話によれば、獣を含んだ獲物の肉をこの部屋で解体しているのだという。


 今は人間の体が2つも逆さにして吊り下げられ、ひとつ……いや、体の上半分が台の上に置かれている。


 台の前にはエプロンを着けて手に牛刀を持った豊田の父親――宗象しょうぞうが、たったひとりでぽかんと口を開けて立ち尽くしていた。


「それ……の……」


 目の前の光景があまりにも受け入れられず、喉の奥、胃の底から吐き気がこみあげてくる。


 それを必死に耐えてやり過ごしてから、吊るされている死体へと――大切な存在だった者の亡骸なきがらへと指先を向けた。


「それ……からっ。悠ちゃんを今すぐおろせっ!」


 清水悠の死体は、両足のふくらはぎに鉄棒を通され、部屋を横断する様に渡された竿にフックで引っかけられている。


 左腕はだらんと力なく垂れ下がって指先が地面をこすり、欠損した右腕と右わき腹からは血が滴り落ちて床に赤い池を作っていた。


 間違いなく、彼女の体は食品として加工されようとしているのだ。


 それは到底受け入れられることではなかった。


「はぁ? なんでお前の言うことを聞かにゃあならんのだ」


「これが見えないのっ」


「くぅっ」


 私は奈緒の体を前へと押し出して、首筋に当てていた包丁を宗象へ見せつける。


「いや、見えているが……」


 宗象の顔に浮かぶ表情は、困惑だけだ。


 彼にとって、奈緒の命は大切ではない。


 せいぜい性欲のはけ口や、飯炊き程度の価値しか認めていないのだ。


 当然、殺すぞという脅しが効くはずはなかった。


「うわぁ、美亜ちゃんまだやるの? 元気だねぇ」


 解体部屋からまっすぐ行った廊下の先にある部屋――豊田の自室――から、豊田が顔だけを扉から出してこちらの様子をうかがっているのが見える。


 ――ここまでは狙い通り。


 なぜなら私がしているのはなにをやってもいいから豊田親子の気を引くことなのだ。


「豊田。あなたね……」


 奈緒の体を盾にして、不自然にならない様に注意しながら後退っていく。


「仮にもあなたの妻なんでしょう。もっと心配くらいしたら?」


「…………」


 さすがに10メートル近く離れていると声が聞こえにくかったのか、仕方ない、といった感じに頭を掻きながら自室を出てこちらに向かって歩いてくる。


 ペタンペタンと足音を立てて廊下を歩くさまからは、自分の妻が人質に取られている緊張感や焦燥感といったものが、欠片もありはしなかった。


「止まりなさい。それ以上近づくと、本当に殺す」


「どーぞどーぞ。それよりコレはさぁ、君の唾液と血を拭いたハンカチなんだけどぉ」


「聞きなさいっ」


「とってもいい匂いがするんだよぉ」


 豊田は鼻に血染めのハンカチをあて、これ見よがしに音を立てて鼻から息を吸い込んだ。


 相変わらず会話のキャッチボールができない男だとか、それ以前の問題だとか色々と思うことはあったが、ここで私がヤツのペースに呑まれてしまってはいけない。


 生理的嫌悪感で総毛だった肌を服の上からこすって治すと、深呼吸をひとつしてから心を落ち着けた。


「この人が居なくなったら、困るんじゃない?」


「そうでもないよぉ。だいたい飽きてきてたし。今は美亜ちゃんに、む・ちゅ・う」


「食事や掃除なんかはどうするつもり? どうせあなたたちのことだから、家事の一切をやらせていたんでしょう」


「む」


 豊田が眉根を寄せ、ピタリと足を止める。


 どうせそんなところだろうと当たりを付けていたのだが、その通りだったらしい。


「あなたたちがどう思っていようと、価値があったから彼女を手元に残していた。そうでしょう」


 ならば脅しは成立する。


 少なくとも、二の足を踏ませる程度の力はあるはずだ。


 私は奈緒の首筋に押し当てた包丁が、彼女を傷つけてしまわないように注意しながら後退していく。


「この人を殺されたくなければ、早く猟銃の鍵を渡して」


「ん~……美亜ちゃんに人殺しが出来るのかなぁ」


「この人に限ってはそれが救いになる。なら私は殺してあげられる」


 自分で自分をあやめるのは難しいけれど、殺してもらえるのなら受け入れる、なんて人は多いのだ。


 私がちょうどそれだった。


 そんな問答をしているうちに、宗象が解体部屋の奥から姿を現す。


 彼は心底面倒だとでも言いたげに顎をしゃくり、豊田に命じる。


「はよ黙らせい、象吉しょうきち。女は殴ってしつけりゃいい。ごちゃごちゃ言っとる間に終わる」


「え~、でもぉ、美亜ちゃんならホントにやりそうだしなぁ。そうなると仕事が増えるし……」


「言っとる場合か」


 バシッと宗象が息子の頭を叩く。


「やらんかい、バカタレ」


「…………」


 ふたりは父子関係ではあるが、仲がいいというよりは共犯関係に近いのではないだろうか。


 しかも、父親である宗象の方が、ややパワーバランスでは上回っている。


 これは、期待通りだ。


「これ以上近づいて来たらこの人を殺す。解放する条件は、猟銃をしまっているロッカーのカギを渡すだけ」


 ――そうだ、ためらえ。時間を使え。


 祈るような気持ちで豊田の瞳を見つめる。


 私の瞳を見返していた豊田だったが、少しの間沈黙してからゆっくりと口を開いた。


「……あの探偵はどうしたのかなぁ」


「探偵?」


「僕のお義兄さんだよぉ。今どこに居るのかなぁ」


「水内さんなら地下室で休憩中。あなたが腕をボロ雑巾にしてくれたおかげで体調が最悪だから」


 ここに水内の姿がここに無い。


 水内は鍵が無くとも錠前を


 これだけの情報が出そろえば、きっと豊田は気づいてしまう。


 彼は父親にはない、ずる賢さを持ち合わせている。


 彼が深く考えれば、必ずその結論に辿り着けてしまうだろう。


 そして私が懸念していた通り、豊田は「そうかぁ」と呟き、


「ロッカーのカギは、わりと開けやすいかもねぇ」


 なんてこぼす。


 ――気づかれた。


「どういう意味だ」


「美亜ちゃんは囮だってこと。僕たちがこうしている間に、お義兄さんが猟銃を盗み出すって算段なんじゃない」


「どこにあるのか知らないはずだ」


「ガンロッカーなんて、部屋に入って見回すだけで在るか無いかわかるよぉ」


 さすがにまずいと思ったのか、チッと宗象が舌打ちをする。


 片手がまともに使えないひとや非力な女性が、指先ちょっと動かすで筋骨隆々の男性を殺害できる。


 銃というのはそれほどの暴力なのだ。


「……見てくる」


 私たちに銃が渡るのは絶対に避けたいのだろう。


 宗象はエプロン姿に加えて牛刀を持ったまま身をひるがえす。


「待て、その場を動くなっ」


 私はその背中に向けて怒鳴り声をぶつけたのだが、引き留めるほどの力はなかった。


「待てっ!」


 宗象の姿が廊下の曲がり角で、消える。


 恐らくは彼の自室へ猟銃を取りに言ったのだろう。


 確かに豊田の予想通り、そこには水内が居て、ガンロッカーの鍵と格闘しているはずだ。


 私が稼いだ時間では、到底足りない。


「…………豊田」


「なぁに?」


 いやらしく、意地の悪い笑みを浮かべる。


 大方、私の狙いを潰せたとでも思い込んで、嗜虐心を満足させたのだろう。


 だが彼は大きな勘違いをしている。


 豊田が私の考えを読むのは、それこそ私の狙い通りなのだから。

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