第25話 ケツイ

 根底に己の身を守るという理由があろうとも、人を殺すという行為はとても重たいものだ。


 かくいう私も決意はすれど、それを為した後のことを考えると気が滅入ってくる。


 ただ、そういった結果を想像してなお、燃え盛る怒りと冷静な判断が、殺すことをよしとしていた。


「もちろん、水内さんも一緒に逃げるに決まってるでしょ」


 もしここで、一緒に逃げるではなく私が殺すと言ったらどうなるだろう。


 わざわざたにんのために出てきてくれた優しい人だ。


 きっと、俺が殺すなんて言うに決まっている。


 だから私は豊田たちを殺す可能性については黙っていることを決めた。


「だいじょうぶ。絶対、だいじょうぶだから」


「…………」


「……だからお願い、一緒に帰ろう」


 奈緒の呼吸は浅く、視線はひとところに定まることを知らない。


 彼女はまだ決めあぐねているのだろう。


 なにが彼女をためらわせるのか。


 なにが彼女の後ろ髪を引き留めるのか。


 それを知らなければ、私の言葉は無為に終わってしまう。


「なにか、気になることがあるの?」


「…………」


 この沈黙は肯定の証だろう。


 そしてこの場合だと、考えられ得る可能性はひとつ。


「誰が気になるの?」


 人質、だ。


「…………」


 もしかして、もしかして、誰か拉致された人がまだ生きているのか。


 それは、女性だったりするのだろうか。


 なんて期待が湧き上がってくるが――。


「息子が……」


 違った。


 一緒にさらわれてここに来たのか、ここで無理やり産まさせられたのかは分からない。


 後者だったらあいつらを殺すべき理由がまたひとつ増えるのだが、今はそれよりも水内翠ではなかったことの方がショックだった。


「…………どこ、かに、囚われて?」


「倉庫に監禁されていて……。一日一回の食事の時だけ会えるのですが、あとはずっと……」


「そう。わかった。なんとか、する」


 ひとこと一言、なんとか言葉を紡いでいく。


 もし水内翠が生きていたのなら、共に生活しているであろう女性が言及しないというのはおかしい。


 まったく気にかけないということは、そういうことなのだ。


 結果的に、また水内の気持ちを踏みにじってしまったことを後悔する。


 今、彼はどんな顔をしているのだろう。


 きっと酷い表情をしているはずだ。


 私が、させてしまった。


「息子さんも一緒に逃げましょう。名前はなに?」


かけるです。飛翔ひしょうしょうでかけると読むんです」


「いい名前ね」


 翼でもあれば、ここから飛んで逃げられる。


 そんな願いを込めた名前なのだろうか。


 まさに今の状況とピッタリな名前だった。


「ほ、本当に翔を助けてくれるのですか?」


「ええ。そのためにはあなたの協力が必要だけど」


「…………」


 今度の沈黙は、明らかに今までとは違った。


 恐怖と期待の合間で心が揺れている。


 迷いがある。


 未来への憂いもある。


 でもそれを覆しうる希望があった。


「分かり……ました」


 心の天秤が、一方へと傾く。


 それはもちろん、自由へと。


「お願いします」


 奈緒は一歩後ろに下がった後、私の瞳を真正面から見つめてくる。


 初めて目があったのは、彼女が自分を取り戻したからにほかならなかった。


「こちらこそ」


 私は一度彼女の腕を離し、改めて手を握りなおしたのだった。






 奈緒が水内の腕を治療し終えるまでに、さほど時間はかからなかった。


 鉄格子に寄りかかって入り口を見張っていた私の元に、奈緒と水内が速足でやってくる。


「悪かった」


 それはなんの謝罪なのか。


 謝らなければならないのは、私の方だというのに。


 私はゆっくりと頭を振り、鉄格子の前に立っている水内の腕へと視線を向ける。


「ごめんなさい。私が人質にならなければあなたもそんなことをされなかったのに」


 白い帯で吊り下げられた彼の右腕は、まるで紐の切れた操り人形のように力なく垂れ下がっており、彼の意思が肘から先に一切伝わっていないように見える。


 しかし、水内は軽く肩をすくめて首を左右に振り返す。


「それを言うなら俺が君たちを見捨てなければこうはなってなかったさ」


「見捨てたんじゃないっ」


 思わず大声を出してしまう。


 だって、水内の願いは人間として当然のことだったから。


「大切な人を諦めたくなかったんでしょう?」


 昨日今日会ったばかりの他人より、ずっと一緒だった肉親を優先するのは当たり前だ。


 私だって彼の立場ならそういう判断をする。


「…………いや」


 くしゃりと、水内の顔が歪む。


 ダメだ。


 この先は言わせちゃいけない。


 ずっと彼を動かしてきた理由が、無くなってしまう。


 でも、私にはなんの言葉も思いつかなかった。


 否定の言葉は今さら……空虚からっぽに過ぎた。


「翠は、死んでたんだよ」


 なあ、と隣で鍵を握りしめて立っていた奈緒が、申し訳なさそうに視線を逸らす。


 幾人もの犠牲者を見送って来た立場だからこそ、水内翠の結末も知っていたのだろう。


「死んでたんだ……」


 頷きを、ひとつ。


 またひとつ。


 自分自身にその言葉を言い聞かせるように、水内は何度も頷いた。


「だからこそ生きている人を優先しなきゃいけなかったのに、俺は見捨ててしまった。とんでもない大馬鹿だよ」


 その結果、あの明るくて陽気な、そして繊細な少女の命は潰えてしまった。


 けれど、それは水内のせいではない。


 せいではないのに、彼は責任を感じてしまうのだろう。


 本当に、色々と背負いすぎだ。


「…………」


「…………」


 彼の言葉を、想いを、否定することなどできない。


 水内はもう充分傷ついた。


 これ以上、私が傷つける必要はない。


 彼を否定しちゃ、いけない。


 私は水内に手を伸ばし……しかしなにも出来なくて、軽く握った拳を鉄格子にぶつける。


「分かった」


 私も水内のように頷く。


 否定はしない。


 肯定もしない。


 理解するだけ。


 それでもきっと、それこそが最善なのだと信じたかった。


「……それじゃあ、さ。トイレを見てくれないかな」


「トイレ……?」


 水内が本題に入った様に、私も気持ちを切り替える。


 あまりに長い時間、奈緒がこの地下牢に居ては、裏切りを勘ぐられるかもしれない。


「荷物を取り返したんだが、そのうちのいくつかを板の裏側に張り付けておいたんだ」


 狭苦しい牢屋には、お情け程度に排泄用の設備が設けてある。


 部屋の隅っこに穴を掘って板を被せただけの、トイレと言うのもおこがましい代物ではあるが。


「次の誰かが使えばいいと思ったんだよ。まさか自分が使う事になるとは思わなかったけど」


 なんとも水内らしい言い分を背中で受けながら、言われた通りの場所を探る。


 そこには、私ではどう使うのか判別できない、薄い鉄の板をいくつも重ねて鍵を形作っている道具――恐らくはピッキングツール――と、ボールペンが一本、ガムテープで貼り付けてあった。


「その自動ピック……道具を使えば、誰でも楽にピッキングが出来るんだ。ドラマなんかでは細い針金のようなツールを使っているけど、あれはだいぶ古い器具でね。これだと片手でも開けられるんだ」


 とはいえ相応の知識がなければ使えそうにない。


 ツールを水内に渡すと、ボールペンの方を指先で摘まんで掲げてみせる。


「こっちは?」


「スタンガンだ。改造してあるから威力は折り紙付きだが、その分使用回数が少ない」


「へぇ……」


 スタンガンは当てると気絶するイメージがあるが、実際には当たったところがとてつもなく痛いだけだそうだ。


 だから、痛みに耐性がある人間ならば構わず行動することもあるそうだが、これは改造して威力があがっている分、そんなことにはならないらしかった。


「それで、今日の昼と夜は休憩にあてて深夜になったらこっそり抜け出すのが一番現実的だと思うがどうかな?」


「……そう、ですね」


 水内の提案に奈緒も賛意を示す。


「今度は俺が車を奪えばもっと楽に移動できる。確率はかなり高いはずだ」


 確かに逃げるならばそれが一番だろう。


 逃げるならば。


 果たしてそれが成功するだろうか。


 恐らく今まで拉致されてきた人たちも、同様に脱走計画を練ったはずだ。


 豊田たちが活動する昼間を避け、寝静まる深夜を狙う。


 誰しもが考える作戦だ。


 だからこそ、私は賛成できなかった。


 私たちが諦めていないことを豊田は知っている。


 タイムリミットを私たちが知っていることも、知っているはずだ。


 きっと豊田は深夜に私たちが脱走しようとすることを読んでいるだろう。


 罠を張り巡らせ、獲物がかかるのを今か今かと手ぐすねを引いて待つはずだ。


 そんな虎口に飛び込んで行ったらどうなることか。


 確実に私たちは助からない。


 豊田にいい様にもてあそばれて、儀式の生け贄に使われて終わる。


 これは絶対だ。


 確実に起こる未来の話だ。


 だから――。


「私は、今すぐ実行すべきだと思う」


「……あまりいい手段には思えないが?」


 確かに私たちは今疲れ切っている。


 怪我をして、体力を使い果たして、到底脱走なんて出来ない状態のはずだ。


 だからこそ、今するべきなのだ。


 豊田が罠を張り巡らせる前に、口が閉じてしまう前に脱出すべきなのだ。


 私は首を縦に振って同意しつつ――


「奈緒さんを人質に取る」


 それとは真逆の計画を話し始めた。

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