第20話 ソウグウ
「すみません」
及び腰になりながら、山小屋の戸を叩く。
反応はない。
その後も何度か声をかけながらノックを続けてみたものの、やはり一切の応答がなかった。
「……誰も居ないんだよ、やっぱり」
「かもね」
清水の言う通り、こんなに不便そうな場所にある山小屋に住んでいる人など居なさそうだった。
覚悟を決めてドアノブを握り、捻る。
すると――。
「あ、開いた」
「ずいぶんと不用心ね……」
山小屋は遭難した人のために鍵が付いていないこともあるらしいが、私が握るドアノブを見る限りではそうではないはずだ。
意図的に開けているのか、はたまたかけ忘れたのかは定かではなかった。
「でも、おかげで助かったよ~。おじゃましま~す」
「あ、ちょっと」
物怖じしない清水は、私の横をすり抜けて山小屋の中へと足を踏み入れる。
窓が戸板でしっかりと塞がれ、中は真っ暗だというのになんとも思わないらしい。
もしかしたら足の痛みと疲れが勝っただけかもしれないが。
「……し、失礼します」
先ほどから物音が一切聞こえてこないため、誰かが居るわけでは無さそうだったが、一応断わりを入れてから私もお邪魔させてもらう。
足の裏と板張りの床の間で砂利が擦れてザリッという不快な音を発する。
なんとなくだが、入り口を境界線に、内と外ではなにか違う世界にでもなっているように感じられた。
「うっわ、真っ暗だね~」
入り口から僅かな光が部屋の3割くらいまで差し込み、なんの変哲もない部屋を浮かび上がらせている。
扉から入ってすぐ右の窓には、丸木の棒をいくつも連ねて作った板がはめ込まれている。
部屋の中央には古びて足腰が緩くなっていそうな木製のテーブルが一卓と椅子が二脚据え付けられており、奥には既に使われなくなって久しそうな暖炉が設けられていた。
それより奥は、光を吸い込む闇に遮られてなにも見えない。
「待ってて」
窓のところまで行って、戸板を外に向かって押してみるも、なにかが引っかかっているのか微動だにしない。
一応内側に向けて引っ張ってみたが、やはり徒労に終わった。
「ごめん、ライト点けてもらえる?」
「おっけー」
私の言葉に従って、清水がスイッチを入れたスマートフォンを暗闇へと向けて―― 思考の全てが恐怖一色に塗りつぶされる。。
「――――っ」
「…………え?」
――見つけてしまった。
視界に入れてしまった。
そんなことは決してしてはならない間違いだったのに。
私は、私たちは、やはり逃げるべきだったのだ。
こんな山小屋に入ることなく、一心不乱に一目散にこの場所から一秒でも早く離れるべきだったのだ。
なんで、なんでこんなものがここに
こんなヤツはここに居てはいけない。
存在してはいけない。
こいつが世界に在ること自体が、この世界を
「――あっ」
暗闇の中、ひっそりとたたずんでいたのは、一体の石像。
頭部は象の形を模しているのだが、魚のヒレのような大きい耳と、ぐるりとねじ曲がった大きな牙、先がヒルの口のような形をした異常に長い鼻をしている。
胴体の方はまるまると肥え太った人間そのものの形をしており、まるで大仏かなにかを連想させる座り方とポーズを取っていた。
見た目だけならばガネーシャなどの象をモチーフにした石像なのだが、私の本能はこれがそんな安直な代物ではないと警鐘を鳴らしていた。
「あ……あ……あ……」
我知らず顎が震え、舌はもつれてしまい、うまく言葉を紡ぐことができない。
体は薬でもかがされたのかと思うほどの痺れを訴えてくる。
視界がグニャグニャと歪み、今わたしは立っているのか横になっているのかすら定かではない。
だというのになぜか石像だけは鮮明に視界の中にとどまり、圧倒的かつ確固たる存在感を示していた。
「や、やあぁぁ……」
蚊の鳴くような声が聞こえてきて、私は我に返った。
少女も私と同じく背徳的で冒涜的な石像に圧倒されているのだろうか。
目が石像に吸い付いて離れないため、隣で怯えている清水の方を向くことすら叶わない。
ただ、先ほどまで恐怖に染まっていた思考は、少しだけ立ち直っていた。
そうだ。
今清水を助けられるのは、私だけ。
大人である私だけが、子どもである清水を守ることが出来る。
いや、守らなければならない。
なにがあろうと絶対に、だ。
「ゆ、ゆ……う……ん」
決意は固まった。
しかし体は相変わらず私の指示に従ってくれない。
ならばと、私は現時点で唯一動かすことのできる舌を伸ばして前歯の間に乗せる。
そして、
「んんっ」
舌先をわずかに噛みちぎった。
鋭い痛みが体中を駆け巡り、全身の震えを洗い流していく。
――そうだ、思い込め。
この世界に恐ろしいことはたくさんあるけれど、無為の死よりも恐ろしいものはないと。
このままここに居れば、私たちにはそれが訪れてしまうのだと。
「悠ちゃんっ!」
大切な、守るべき少女の名を口にすることで、私はようやく束縛から解放された。
未だ痺れの残る体を引きずり、隣の少女と石像の間に割って入り、彼女の視線を
「目を、覚ましてっ」
清水の両肩を掴んでガクガクと揺さぶりながら怒鳴りつけると、徐々に瞳の焦点が私に合い始める。
「そう、私を見てっ!」
しかし、清水はたったひとつの感情にその身を支配されている。
それを断ち切らなければ、まともに動くことも出来そうになかった。
「逃げるのっ! ここからっ! いい!?」
「に……げ……?」
「そう、急いでっ!」
清水の顔を両手で挟み、無理やり入り口の方へと向ける。
石像を見せないことと、意識を逸らす目的があったのだが――。
「……逃げられない」
失敗した。
「逃げられない逃げられない逃げられない逃げられない逃げられない…………」
顔を横にしたまま、清水はぶつぶつと呪文のようにつぶやき続ける。
何度も。
何度も何度も何度も。
「見られた知られた逃げられない理解された誰を私を逃げられない終わりだ捕まった逃げられない捕捉された捕らえられた逃げられない喰われる
それはまるでナニカが清水に取り憑いて言わせているようでもあり、彼女の構造がナニカ別の物に置き換わってしまい、それを口にするだけの生き物に変じてしまったようでもあった。
「なにを言ってるの! まだ終わってない!!」
私は彼女の呟きに圧倒されないように声を張り上げ、気付け代わりに頬を強めにはたく。
「逃げるの!」
まるでプログラムされた機械人形みたいな動きで、清水が私へと顔を向ける。
だが、彼女の瞳は私を捕えてなどいなかった。
私を通り抜け、その背後を見つめているようにも見えた。
「――なにか?」
背後を振り返ってみても、そこにはなにも無いし誰も居ない。
虚無の空間が広がるだけだ。
……いや、なにも無いのがおかしかった。
清水の手からスマートフォンを奪い、もう一度暗闇に光を向ける。
「……ない」
あれほどの存在感を放っていた石像が、まるで煙のように失せてしまっていた。
今のは幻覚だったのか、それとも現実に起こっていたことなのか、いや、そもそも私の理解が及ぶ現象なのかも分からない。
ただ、今はそのことを気にしている暇などなかった。
「あああぁぁぁぁぁっ!!」
清水がより絶望に染まった悲鳴をあげる。
体をよじり、私の手から――いや、私が見る事の出来ないなにかから逃れようともがく。
「居る! 居るのぉ!!」
「なにも居ないからっ!」
「来るっ! 来てるっ! そこっそこっそこぉぉっ!!」
「なにも来てないしなにも居ない! 落ち着いて私を見て!!」
一瞬だけ振り向き、清水が差した方向を確認したが、やはりそこには闇が
なにも見えないし、存在を感じ取ることすらできない。
居ないはずだ。
これは清水が幻覚を見ているだけのはずだ。
それ以外には、考えようがなかった。
「だいじょうぶ、だいじょうぶだからっ!」
根拠のない言葉をいくら重ねようと、意味をなさない。
ただ無意味に大気をかき乱すだけだった。
「あああああぁぁぁああぁぁぁいいやぁぁぁぁああああっ!!」
「悠ちゃんっ」
やがて、そんな現実に耐え切れなくなったのだろう。
清水は私の手を振り払い、出口に向かって走り出した。
「だめ、待って!」
慌ててその背中を追いかけるも、
「うあっ」
私はその場で無様に転倒してしまう。
靴底が割れている上に足の裏が傷だらけなのだからまともに走れなかったのだ。
したたかに打った顔面を手で押さえつつ、顔を上げると――。
「……え?」
右腕と右胸を大きく抉り取られた清水の姿が瞳に飛び込んできた。
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