第17話 トウボウ?

 私たちが捕らえられていたのは、一般的な洋風建築の家屋を二回り以上大きくした屋敷だった。


 出口となった通気口は風呂場の床下に設置されており、運よく点検のためにねじ止めされた蓋が付いていたようである。


 今は水内が力づくで蹴り開けたので、見る影もないが。


「出て――くんじゃねぇっ!」


 水内が私と入れ替わりに出口の前へとしゃがみこみ、暗闇に向かって左ストレートを叩きこむ。


 その瞬間、どたどたと激しい物音を立てて近づいてきていた足音が、ふつりと糸が切れた様に聞こえなくなった。


「このまま逃げるぞっ!」


「分かってる!」


 威勢よく頷いたはいいものの、息は激しく荒れ、地面についた手は満足に体を支えることすらできていない。


 自分で気づいていなかったのだが、既に心身ともにボロボロで、私の要求に応えるだけの力は残っていなかった。


「手を」


 目の前に傷だらけの手が差し出される。


 私だけではない。


 彼だってここに至るまで力を振り絞ったはずだ。


 甘えるな。


 そう自分を叱りつけ、水内の手を支えになんとか立ち上がる。


「…………」


「ごめん、なさい。……10秒だけ、休憩、させて」


 なんだったら置いて行ってもらっても構わない、なんて続けようとしたのだが――。


「ひゃっ」


 突然私の体が宙に浮く。


 もちろん、不可思議な力でそうなったのではなく、水内の手による物理現象だ。


 端的に表現するならば、私はいわゆるお姫様だっこで持ち上げられていた。


「無理するな。君が一番頑張っていたんだから」


「…………」


 レディをいきなり抱き上げるなんてマナーがなっていないとか、思っていたよりも凄く顔が近いとか、重くはないだろうかとか、鼓動が聞こえてしまいそうなほどうるさいとか、色んな思いが私の頭の中で渦を巻く。


 でも、その中でもひときわ大きな思いは、安堵、だった。


「……ありがとう」


「どういたしましてっ」


 なんとなく顔をまっすぐ見られなくて、うつむいたままお礼の言葉を口にする。


 そんな私を知って知らでか、水内は私の耳元で応えると、そのまま走り出した。


 揺れる。


 私が揺れる。


 視界が揺れる。


 世界が揺れる。


 紫色の空がだんだんと赤色に浸食され始め、黒一色だった大地に色が戻っていく。


 ふと、私たちが今まで監禁されていた方角に視線を向けると、家のシルエットだけが拳くらいの大きさになっていた。


 あれほど騒いだというのに、明かりがまったくついていないところを見ると、まだ寝ているのか家に居ないのか、あるいは追ってきているのか。


 しかし、辺りは開けた一本道……というより、円形の湖がいくつも連なっており、その横にあるわだちが一筋のびているだけだ。


 当然、家から私たちまで遮るものはなにも無い。


 そして、豊田の影すら見えないという事は、きっとまだ私たちが脱出したことに気づいていないはずだ。


 ――逃げられる。


 少なくとも、これでヤツに殺されることはない。


 そう思ったら、ふっと全身から力が抜けていく。


 まだやることがあるのに。


 逃げるのには私自身が自らの足で歩かなければならないのに。


 でも、一度緩んでしまった緊張を、再度締めなおす気力など既に潰えていた。


「み……ない、さん。ゆう、ちゃん……」


 並走しながら足元をスマートフォンで照らす少女の姿がどんどん薄く小さくなっていく。


 彼女が離れているわけではない。


 私の意識が遠くなっているだけ。


「……ごめん……なさ……」


 最後まで言い切ることすらできず、私の意識は夢の世界へと引きずり込まれてしまった。






「……きてっ。――きさん、起きてっ」


「いや、もう少しだけ待つことにするよ。静城さんもきっと疲れてるだろうから」


 ……そうだ、私は疲れている。


 疲労困憊と言ってもいい。


 とにかく体中がだるくて重くて、どうしようもない。


 なにせ変態の殺人鬼に拉致されるわ、トンデモ雑誌に出てきそうな化け物と殴り合いの大ゲンカや死に物狂いの逃走劇を繰り広げるわと色んなことがありすぎたのだ。


 だからもう少しだけ……。


 ――なんて無責任なこと、していいはずがないっ。


「ごめんなさいっ! 私――」


 目を開けて、なぜか体が動かないことに混乱する。


 まるで全身をなにか固い物に縛りつけられているような――。


 一瞬まさかを想像して焦ったのだが、真実は違った。


 私は水内に背負われているだけだった。


 ただし、私が落ちないようにと、背負った上からコートを羽織って全身を固定していたのだ。


「――――っ」


 恥ずかしさでかぁっと頭に血がのぼる。


 白状しよう。


 水内が女慣れしていないことを可愛く思った私ではあるが、そんな私も彼と同様、異性にはあまり慣れていない。


 こんな風にして異性と密着するのは初めての経験で、どう反応していいのか分からず、頭の中には戸惑いしかなかった。


「ああ、起きたのか。今下ろすから待っててくれ」


「…………ソウシテクダサイ」


 私が消え入りそうなほど小さな声で呟くと、なぜか清水が「んんんんん~?」なんてわざとらしい声を出しながら私の顔を覗き込んで来る。


 とんでもなく恥ずかしいから、顔を手で隠してしまいたかったのに、コートの束縛がきつくてそれも出来なかった。


 というか、小憎らしいあの顔をちょっと小突いてやりたい。


 正直とっても腹が立つ。


 まあ、私が気を緩めたせいで睡魔に負けてしまったのと同様に、開放感で浮かれているのだろうけれど。


「大丈夫か? 立てなければまた――」


「だいじょうぶっ」


 宣言通りに2本の足でしっかりと地面を踏みしめてみせる。


 少しでも寝ることができたおかげか、膝が抜けるようなことは無かった。


 ……片方の靴底が割れているせいで、微妙に雑草が足裏をくすぐったが、たいした問題ではない。


「どのくらい寝てたの?」


 きっと水内は休まず歩き続けてくれたのだろう。


 あの忌まわしい家の姿はどこにも見えなかった。


「ん~?」


 清水が即座に手首を返してスマートフォンの画面を確認する。


「15分くらい」


 休むのには短いが、人ひとり背負って山道を歩くには長い時間だ。


 私は水内の瞳をまっすぐに見た後、もう一度しっかり頭を下げる。


「ありがとう。本当に助かった。あなたが居なかったら私はきっとあそこで死んでた。命の恩人ね」


「こっちも君の強さに支えられたし助けられた。お互い様だよ。そもそも最初に俺が忠告すれば君たちはこんな目に会わなかったんだから、俺は命の恩人でもなんでもないさ」


 水内は断りつつ、罰が悪そうに鼻の頭を掻きながら視線を逸らす。


 照れているようには見えなかったので、本気でそう思っているのだろう。


 私個人の考えとしては、あくまで悪いのは豊田なのだから、水内が罪悪感を覚える必要はないはずだ。


 もっとも、こういうことを他人から言われたところで自己嫌悪が消えることはない。


 だから私は「そう」とだけ頷いて、この話題を打ち切った。


「ところで私の胸だけど……」


「えっ!?」


 今気づいたのだが、出血こそ止まっているものの私の胸元は真っ赤に染まっていた。


 スーツがこのざまなら、先ほどまでスーツが触れていた水内の背中は私の血で汚れているだろう。


「いやまあ、そりゃまあそうなんだけどな?」


「?」


 先ほどとは打って変わり、水内はわたわたと腕を振り、視線を盛んに色んな方向へとさまよわせる。


 なぜ、これほど慌てる必要があるのだろう。


 汚してしまった私が悪いのに。


「個人的にはいい思いをしたっていうか、そんなに気にしなくていいと思うぞ?」


「そう?」


「ああ、いい感触で気持ちよかった、うん」


 いい感触だった?


 気持ちよかった?


 なにを言っているのか分からず、その真意を考えて……気づいた。


 決定的なまでに、私と水内は考えていることがすれ違っていたのだ。


「…………」


 自分でも分かるほど、視線の温度が下がっていく。


 こんな時にこの男はそんなことを考えていたのだと思うと、少しだけ呆れてしまった。


「私はあなたの背中が私の血で汚れたことを言っているのだけど」


「え?」


 私の一言で水内が一気に硬直する。


 やはりずいぶんと失礼なことを考えていたらしい。


「す、すまないっ」


「私の失礼とあなたの失礼でチャラにしてあげる」


「ほんっとーに申し訳ない」


 その後もすまないすまないと何度も頭を下げて来たのだが、男の人は下半身で思考するのがよくあるということを知識として知っていたため、気にはなるものの納得は出来た。


「こほんっ。え、え~それで、だ」


「なぁにぃ~?」


 清水が忍び笑いを漏らすが、茶化さないだけ空気を読んだ方だろう。


 水内はもう一度咳ばらいをした後、真剣な表情に戻った。


 そして、


「俺はここまでだ。気をつけて」


 別れを切り出した。

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