第16話 カイホウ

「可愛くない。もうちょっとシナでも作って泣くふりでもしてみたら?」


 強がりをぶつけてみるが、ミリ・ニグリの醜悪な顔にぶつかってなんの成果もあげられずに闇の中へと吸い込まれていく。


 言葉は一切通じそうになかった。


 ミリ・ニグリが姿勢を低くし、まるで狩猟直前の肉食動物のような構えを取る。


 きっと私を本気で殺す気だ。


「くぅっ」


 負けるわけにはいかない。


 心が折れてしまえば、その時点で本当に終わってしまう。


 私は腹に力を入れ、獣を相手にするようにミリ・ニグリの黄色い瞳を睨み返す。


「早く、開けてっ!」


「分かってる!」


 背後――すなわち進行方向から悲鳴じみた声でのやり取りが聞こえてくる。


 ふたりがどんな状況か、私には知る由もない。


 一瞬でも目の前の化け物から視線を外せば、間髪入れずに襲い掛かって来ることだろう。


「…………っ」


「――――」


 ダンッ! ダンッ! と断続的に固い何かを叩く様な鈍い音が響く。


 それを合図にしたか――


「ふ……ぅっ!」


 ものすごい勢いで、飛び掛かって来た。


 私は、ミリ・ニグリの進行方向に向けて足を突き出す。


 タイミングは合っている。


 道は狭く、避けることなど早々出来ないはずなのに――。


 化け物は化け物らしい動きで身をうねらせ、攻撃をかいくぐって来る。


「く――ぅのぉっ!」


 もはや足なんてくれてやるという気概で体を捻り、両足でミリ・ニグリの体を押さえつけに行く。


 一瞬は触れることができた。


 でもそれだけで、捕らえることは叶わなかった。


 するりと逃れたミリ・ニグリは、一瞬闇の中へ姿を消す。


 足が輪切りにならなかったことに、ほっと胸を撫でおろす――暇さえなかった。


 私が方向を変えるよりも早く、二度目の襲撃が横合いから加えられる。


「あっ」


 鉤づめのついた小さくて歪な怪物の手が、私の左腕を地面に縫い留める。


 そして空いたもう一方の手が、胸元にのしかかって来た。


「この――づぅっ」


 せっかく治療したばかりの左腕に鋭い爪が食い込み、痛覚神経がまたも大声で暴れ出す。


 しかし、その泣き言を言うよりも早く、ミリ・ニグリの耳元まで裂けた口が覆い被さってくる。


 狙いは――喉元っ!


 それまで握っていたスマートフォンを離し、逆にミリ・ニグリの喉元を掴む。


 私の顎先から数センチと離れていないところで、トラバサミのような口が閉じ、ガチンと音を立てる。


 間一髪で私の命は繋がった。


 ただ、危機から逃れられてはいない。


 今も私の死は、私の上に覆い被さっている。


 ミリ・ニグリが顔から飛び出した目をぎょろりと私に向け、両生類特有の縦に長い瞳孔がぎゅいっと細まった。


 勝ち誇っているのだろうか。


 あるいは獲物を前に、どう料理してやろうかと舌なめずりでもしているのだろうか。


「――冗談っ」


 私はこいつの朝飯になんてなってやるつもりはない。


 右腕に力を入れて、ミリ・ニグリの体を天井へと押し付ける。


 だが、いくら力を入れようと、黒い怪物が今以上に離れることはなかった。


「うあっ」


 焼けるような痛みに、思わず苦悶の声を漏らしてしまう。


 ミリ・ニグリが私の体に爪を立ててしがみついているのだ。


 しかも、私が力を入れれば入れるほど、爪は服を喰い破り、肉に突き立っていく。


 けれど力を緩めれば……すぐさまにでも牙が私の喉元を切り裂くだろう。


 どうしようも、ない。


 フシュウッと鼻息が顔にあたり、乱杭歯のすき間からよだれがこぼれ落ちて私の胸元に落ちる。


 ――なんて醜い顔だろう。


 黒いカエルに牙を生やし、無理やり押しつぶして人間の顔に作り替えたような存在。


 そして、私に『死』を与えようとしている。


 まさに悪夢としか思えない。


 夢なら冷めて欲しい。


 でも、現実だ。


 揺らぎようがない実体を持って目の前に存在していた。


「は、なれ、て……」


 少しずつ、少しずつ、ミリ・ニグリの顔が近づいてきている。


 この小さな怪物の牙が喉元まで到達した時、私は死ぬ。


 必死に拒んだところでこれ以上はどうすることもできなかった。


 死は、怖くない。


 だって、そもそも自殺志願者なのだから。


 痛いのだって我慢できる。


 どうせ死ねば感じなくなるものだから。


 一番いやなのは、これが押しつけられる死だということ。


 そう、嫌なんだ。


 私はこういう理不尽な現実が、死ぬほど嫌なんだ。


「離れろって言ってるでしょ!」


 腕の力を抜くと同時に、顔を勢いよく前方に曲げて、額をヤツの低い鼻っ柱に叩きつける。


 天井――実際には床板なのだが――と私の頭に挟まれて、ミリ・ニグリの鼻がぐしゃりと潰れ、真っ赤な鮮血が噴き出す。


 こんな奴でも赤い血が流れていたのかと、少しだけ意外だった。


「もういっかい――」


 胸を逸らして軽く溜めを作り、もう一度と打ち付けようとした時だった。


 ミリ・ニグリの手に力が戻る。


 グッと傷口が抉られ、骨を直接掴まれてしまう。


「う~~~っ」


 革をも容易に貫く爪がろっ骨を削り、不意をつかれたことも相まって激痛に身悶えする。


 そして、力を緩めてしまった。


 カツンッと嬉しそうに歯が打ち鳴らされる。


 もしもこのミリ・ニグリが話すことが出来たのなら、きっと勝利の雄たけびを上げているだろう。


 不規則に並んだ牙が私の命を奪わんと迫り――。


「やらせるわけっ」


 突然割り込んできた黒い物体に、ミリ・ニグリは突き飛ばされた。


 いや、もっと正確に言うならば、頭から突っ込んで行った清水によって、弾き飛ばされたのだ。


「ちょっ」


「いったぁ~~~~」


 人間の頭蓋から出しても平気なのかと心配になるほど壮絶な音を立ててぶつかっていたため、少女の身になにか問題が起きないのか不安だった。


 しかし、彼女の身を案じるよりも先にすることがある。


 私はスマートフォンを拾うと、解放された体をひっくり返して腹ばいになった。


 なによりも優先してすべきこと、それは、全力で逃げること。


 うっすらとだが、真四角の光が前方に確認できる。


 その中央に、水内の顔があった。


 間違いない、あれは外へと通じる出口だ。


「急いでっ」


 したたかにぶつけた箇所を手で覆って悶絶している清水を急かし、出口へと急ぐ。


 無我夢中で手足を動かして、前へ前へ前へ。


 ゴミが目の中に入って視界が霞んでも、変な臭いのする土が口の中に飛び込んでこようとも、どれだけ服が乱れようとも、腕と胸の傷口がどれだけ悲鳴をあげようとも構わなかった。


 殺されないために。


 生きるために。


「悠ちゃんから外に出てっ」


 出口に到達する間際、私と同じく懸命に地を這いずっている少女へ怒鳴る。


「でも……」


「手を伸ばせっ」


 つべこべ言っている暇はないと、水内が清水の腕を掴んで無理やり外へと引きずり出す。


 次は私。


 恐らくは換気口の格子を無理やり蹴り開けたのだろう。


 砕けた鉄片の残る出口のへりに手をかけながら、ちらりと後ろを振り返り――見なきゃよかったと後悔する。


 吹き飛ばされ、痛みから立ち直るのにさしもの怪物であっても多少時間が必要だったのだろうが、それによって得られた時間的貯蓄はもう残り少なくなっていた。


「お願いっ!」


 清水の足が穴の外に消えると同時、私は手を外へと突き出す。


「次っ!」


 力強く、頼もしい声を指先が感じる。


 つい先ほども感じた大きくて温かい感触が手首を包み、猛追されている不安を吹き飛ばすほどの勢いで、私の体は外へと引っ張り出された。


「…………っ」


 紫色の空と、柔らかい青草が優しく私を出迎えてくれる。


 間に合った。


 生き延びた。


 殺されなかった。


 まだ終わっていないのは分かっているが、捕らわれていた世界から外へと抜け出せた解放感が全身に行き渡る。


 これ以上なく、今の私は生きる実感を得ていた。


 ただ心臓が脈打っているだけではなく。


 ただ人生が続いているわけでもなく。


 生物学的に生命反応があるだけでもない。


 ――たがいようもなく、

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