第15話 ジメンヲハウ

「あ……ぐっ――」


 思わず漏らしそうになった苦悶の声を、必死に奥歯で噛み潰す。


 水内の心配通り、傷ついた腕でコートにしがみつくのはなかなかに無理があった。


「頑張れっ」


 水内の言葉の通り、もはや頑張るしかない。


 二度と這い上がれない、なんてことはないだろうが、体力が削られた状態でもう一度コートにぶら下がるのはきつすぎた。


「言われ、なくてもっ」


 腕の筋肉が引き延ばされ、傷が更なる痛みを発する。


 この時ほど重力を意地悪に感じたことはなかったが、私はなにかの悪意には慣れきっている。


 それが人間だろうと地球だろうと耐える自信はあった。


「よしっ」


 私の右手首が、マメだらけでゴツゴツしていて団扇かと錯覚しそうなほど大きな手のひらで包まれる。


 足が地面に着かず、体が宙に浮いて不安定な中、彼の手だけが私をここに繋ぎ止めてくれていると感じ、少しだけ安堵を覚えてしまったのは、なんとなく不思議な心地がした。


 そのまま私は水内の手で地下牢の外へと引き上げてもらえたのだが……。


「外に出た途端、都合よく脱出、とはいかないわけね。分かってはいたけれど」


 地下牢の天井に空いた大穴から顔を出してみれば、そこは家屋の縁の下だった。


 光源がスマートフォンしかないため暗いのはもちろんのこと、地面と床裏の隙間はあって50センチ程度。


 家の支柱と思しき代物の林が立ち並んで見通しが悪く、どこへ向かって進めばここから脱出できるのか見当もつかない。


 もちろん立つことなど論外な狭さであった。


「愚痴をこぼす暇があったら左手にある支柱を掴んでくれ」


「…………」


 ちょうど怪我している左手のすぐそばに真四角の支柱が立っている。


 なんとも運の悪いことに、私が掴めそうな場所はそこ以外に見当たらない。


 今日は運命がひたすら意地悪をしてくる日らしかった。


「はぁ……」


「あと少しだっ。頑張れっ」


 駄々をこねる左腕を宥めながら支柱を掴んで体を引き上げる。


 水内も私の後ろえりや袖を掴んで助力してくれたため、さほど苦労することなく私の体は地面に這いつくばることに成功したのだった。


「っしょ……と……」


 先ほどまで抱えていた支柱を今度は足で蹴ることで前進する。


 そうして私が絶対に落ちることのない状況になり、一安心して前方を向いたところで――気づいた。


 吐息が私の頬をくすぐり、水内の瞳には私の気の抜けた顔が写りこんでいる。


 あとほんの数センチ私が前に出れば、鼻の頭同士がぶつかってしまうだろう。


 彼と私の距離は、ほぼゼロと言ってよかった。


「…………ありがとう」


「う、お、おう」


 なんとも気まずい。


 今、異性がかつてないほど私に接近している。


 別にそういう感情を持っているわけではないし、男と見れば誰彼かまわず襲い掛かるような性格をしているわけでもない。


 もちろん、甘酸っぱい青春を楽しめるような年齢はとっくに過ぎ去った。


 でも――意外とまつ毛が長いんだな~とか、よく見れば優しい顔つきをしているんだなとか思ってしまったら、なんとなく目を逸らせなくなっていた。


「あ~、えっと、その~……なんだ」


「うん」


「左腕、大丈夫か?」


 何度左腕のことを心配されたのだろう。


 何回大丈夫と聞かれただろう。


 数えていなかったので分からなかったが、悪い気はしなかった。


「そこそこ、かな」


「……そう、か」


「早く逃げないと」


「……あ、ああ、分かってる」


「…………」


「…………」


 視線を外すのが名残惜しい、なんて考えているのは私だけだろうか。


 再び行動を始めるのに、ほんの少し、気持ち時間が必要だった。


「行こう」


 水内は絞り出すようにそう宣言すると、ゴソゴソと180度方向転換をしてから匍匐前進で適当な方向へと進み始めた。


「ねえねえ、静城さん」


「なに?」


 順番として、水内の後に続くことになっている清水が泥まみれで真っ黒な顔を寄せてくる。


「どう?」


「どうってなにが?」


「またまた~」


 彼女が光源にしているスマートフォンは、黒瀬の死体から拝借したもので、ロックがかかっているため私よりもずいぶんと薄暗く、なんとなく表情が浮かび上がっている程度のものだ。


 しかし、なぜか私は清水が今現在大輪の笑みをこぼしている様な気がしてならなかった。


「……状況をわきまえなさい」


「は~い」


 私が注意すると、清水は仕方なくといった感じで頷き、水内の背中……ではなく靴底を追いかけ始める。


 元気になったはいいが、どうにも元気すぎる気がする。


 先ほどまで感情の針が鬱の方向に振り切っていた反動かもしれない。


 修学旅行の第一夜にも似た感覚になっているのではないだろうか。


「黒瀬さんのご遺体を見せないようにしたのは失敗だったかな……」


 せめて人が死んだことをもっと意識してもらうべきだったか。


「……黒瀬さん」


 黒瀬はあの牢の中、首元を食いちぎられ、殺害されていた。


 たったひとりで命を吹き消されてしまった時、いったい彼女はどんな感情を抱いただろうか。


 出来れば薬で眠り、なにも知らないまま苦痛もなく息を引き取っていて欲しかった。


「私も行こ――」


 思考を切り替えて、ふたりの後を追おうとした時、それは現れた。


 来ると分かっていても、おぞましさはちっとも薄れることは無かった。


 斜め後ろ、数メートルほど離れた空間に、ねちゃりとぬらつくような気配を持った、黄色い光を放つまなこがふたつ。


 私が『ナニカ』と呼んでいた存在。


 ミリ・ニグリ。


 化け物――!


「急いでっ!」


 衝動的に、大声が出てしまう。


 それを聞いて、瞳が嗜虐的な形に歪む。


 縁の下なんて狭苦しい場所で私たちは這いずる程度しかできないが、等身が低いミリ・ニグリにとってはさほど不自由のある場所ではない。


 ここは奴の、独壇場にして狩り場と化していた。


「――出たっ!!」


 なにが出たかは言わなくとも分かったはずだ。


 目の前の足が動く速度が5割ほど上昇した。


「くっ」


 私もそれに倣い、必死になって這う速度を上げた。


 額を支柱や天井に何度もぶつけながら、無我夢中で目の前の土を掻き、後方へと押しやる。


 そのたびに私の体は十数センチだけ前に進む。


 しかし、そうして私が進んだところで圧倒的にミリ・ニグリの方が早かった。


 右足首の触感が、何者かに捕まれてしまったことを訴えてくる。


 その瞬間、全身の毛という毛が逆立つのを感じた。


 ――食べられるのは、嫌だ。


 私は人間だ。


 食べ物じゃない。


「いやっ」


 反射的に右足をふるい、ミリ・ニグリの手を振り払う。


 一瞬だけ離れたが、またすぐまとわりついてくる。


 足をバタバタと振り回したところで効果があるのは一瞬でしかない。


 ならば――。


「こ――のぉっ」


 振り向き、狙いを定めてヤツの顔面を思い切り蹴り飛ばす。


 足裏に固いゴムのような人間のものとは思えないぶにょりとした感触が跳ね返ってくる。


 この一撃は痛痒を与えられたのか、ミリ・ニグリが大きく怯む。


 だが、同時にヤツの闘争本能にも火をつけてしまったようだ。


「カァァァッ」


 ミリ・ニグリは乱杭歯を剥き出しにし、鋭く息を吐いて威嚇音を発する。


 まなじりは吊り上がり、瞳には先ほどの嗜虐心に代わって殺意が宿った。


「く、来るなっ」


 私は両肘を使ってズリズリと後退りながら、時折蹴りつけるような仕草をしてミリ・ニグリ牽制する。


 だが、そんなものは大した時間稼ぎにもならなかった。


 気炎と共にふるわれた鉤づめが、出勤用に長らく愛用してきたローファーの側面に突き刺さり、容易く靴底を割り裂いていく。


 靴そのものは高いだけあって、丈夫な牛革製である。


 それでもミリ・ニグリの爪は、まるで障子紙か何かのように貫いてしまった。


「――――くっ」


 爪の切れ味にゾッとしつつも、ミリ・ニグリの肩口辺りを強く蹴り飛ばす。


 体重差とタイミングがうまく重なり、大きく距離を取らせることに成功したのだが――。


「…………」


 瞳に宿る殺意は変わらず健在で、痛みなどまるで感じていないようであった。

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