第9話 モウヒトツノチャンス

「……はぁ」


 終わった。


 まだ人生こそ終わっていないが、脱出できる大きなチャンスを逃したのだ。


 ため息も出ようというものだった。


 私は肩を落とし、力を入れすぎて強張ってしまった腕をさする。


 痺れを一回り大きくした、痛みと痒みの狭間にあるような感覚が筋肉の内側で這いまわり、より一層不快感をいや増した。


 しかし、ここで私が折れるわけにはいかない。


 先ほどまで心が死の淵にあった少女にそんな姿をみせるわけにはいかないのだ。


 私はハッと小さく息を吐いて気合を入れなおし、表情を引き締めた。


「ごめん、ね。清水さん。逃がしてあげられなくって」


 まだ希望は残っている。


 私は次のチャンスがあることを信じている。


 なんて、心にもないことを、信じてもらえる様な表情ができているだろうか。


「あんなに頑張ってくれたのに」


 私はスカートを押さえながらしゃがみ、膝を地面につける。


「次は絶対逃げられるから」


 けれど、少女は頭を抱えてうずくまり、私に対してなんら反応をみせてはくれなかった。


 私ですら騙せないのだから、他人の清水であればなおのことであろう。


 微かにしゃくりあげるような音や、鼻をすする音が痛々しい。


 なんとかしてあげたかったが、私には何をしてあげればいいのか分からず、無言で背中をさする程度のことしかできなかった。


「…………」


「すまない、静城さん。耳を貸してくれないか?」


 ああ、そういえば水内さんは今フリーだったっけ。


 鍵を返すこと、そして自ら牢屋に戻ることを条件に黒瀬の無事を約束させた。


 そんなこと、今のチャンスと比べれば塵にも劣るものだとは思うのだけれど……。


 未来に死が待っているのなら、現在の安全になど意味はないはずだ。


「私は逃げて欲しかった」


「いいから」


 不満気な私を急かすように、ちょいちょいと手招きをしてくる。


 このまま話すのではダメなのかと思わないでもなかったが、仕方なく清水を撫でるのを止めて立ち上がった。


 私が鉄格子の間から耳を突き出すと、水内は小学生がするように手で口の周りを囲み、ささやきかけて来る。


「……針金かなにか、細長くて固いものを持っていないか?」


「…………」


 なんとも都合のよすぎる台詞に思えて私は眉をひそめる。


 確かに水内がそういう泥棒か専門家の真似事をできるのならば、逃げる選択をしなかったことも頷ける。


 もっと後、例えば暗くなってから豊田たちが寝静まり、見つかる危険が無くなってから逃げ出せばいい。


 そちらの方が今よりも成功率は高いだろう。


「鍵の形は覚えたから、多少時間は必要だけれど、扉につけられた南京錠は開けられる」


「……技術は持ってるの? 素人には無理だと思うけど」


 水内の声に合わせ、聞こえるかどうか不安になるほど小声を出す。


 わざわざこうして小声で話をしてきた理由は、きっとこの感受性の高そうな少女に聞かれたくなかったからだろう。


 もし本当に希望があると知って態度や顔に出てしまい、あの変態に悟られては一巻の終わりだ。


「もちろん俺は素人じゃない。……プロでもないんだが」


「信頼できない言い方」


「本当はペンに偽装したピッキングツールを持ち込もうとしたんだが、薬で眠らされている間に取り上げられてしまってね」


「……そう」


 それではまるで、自分の意思でここに潜入しようとした、と言っている様なものだ。


 この男はいったい何者なのだろう。


 本当に、信じてもいいのだろうか。


 もし豊田の仲間だったら?


 鍵を開けられるなんて嘘をついて、私たちをこの牢獄に閉じ込めておくことが目的だったら?


 その答えを出すのには、あまりにも情報が足りなさすぎる。


 色々なことを問いただしたかったが、今、そんなことをしている時間は無かった。


「細長くて硬い物なら……」


 幸いなことに、癖の強い髪の毛に毎朝泣かされている私は、ヘアピンをふたつばかり使用している。


 水内の要求に応えることは可能だった。


「これでいい?」


「ああ、ありがとう」


 ヘアピンを手渡すにあたって、警戒しなかったわけではない。


 私たちの味方なのか。


 騙してはいないのだろうか。


 何故自分からこの地獄へと飛び込んだのか。


 知らないことだらけで信用に値する人物だとは思えない。


 でも、今、この状況で私を騙すメリットはほとんど見つけられなかったし、騙されたところでこれ以上事態は悪くなりようがなかった。


 お礼の言葉を口にした水内は、ヘアピンを大事そうにしまうと、そのままそそくさと廊下の奥へと消えていった。








 それから30分は経っただろうか。


 あまりに戻ってくるのが遅すぎる。


 手当をしているにしても、10分もあれば十分なはずだ。


 嫌な、予感がした。


「ごめんね、清水さん。ちょっと大きな声を出させてね」


 ようやくすすり泣く声が聞こえてこなくなった背中に断わりを入れてから鉄格子を掴む。


「水内さんっ! さすがにおかしいから見に――」


「ああ、俺も同じことを思っていた。行ってくる」


「いえ、私たちも一緒に。罠かもしれないので」


「分かった。その方が良さそうだ」


 ひとりだけのこのこ出向いたところを強襲された、なんてことになっては目も当てられない。


 今は三人で固まっておくほうが安全だろう。


 急いで走って来てくれた水内が、持っていた鍵で南京錠を外す。


 ただ、鉄格子が開いても、未だ落ち込んでいる少女は動き出そうとすらしなかった。


「清水さん、頑張って立てる?」


 返答は、首を横に振ることで行われた。


 私も死にたいと願ったから気持ちはよくわかる。


 怖い。


 どうせなにをしても無駄だ。


 未来の見えない状況を前にして、立ち上がることすらできなくなっているのだ。


「……そうだね。ごめん、酷いこと言っちゃった」


 頑張って、頑張って、それでもダメだったから力尽き、諦めてしまったのだ。


 心が折れているのに、頑張れ、だなんてあまりにも無神経に過ぎた。


「そういえば私たちって死にたかったんだよね」


 もう諦めたのだ。生きる事を。


 死にたかった。


 殺されてもよかった。


 なのに豊田が与える死を拒絶したのは、あまりにもそれがおぞましかったからだ。


 殺人鬼は殺すことに喜びを見出し、楽しみながら死をもてあそび、更には死体を喰らう。


 死後まで辱められてしまうからこそ、皮肉なことに生きる方がマシになってしまったのだ。


「なんで、こうなっちゃったんだろうね……」


「そういう運命だったんだよぉ」


 私の独白どくはくに、到底受け入れられない答えが返って来る。


 顔をあげれば、豊田が白いシーツに包まれた細長い物体を抱えて階段を下りてくる途中だった。


 ……黒瀬が身動き一つしないことが気になる。


「僕と美亜ちゃんが出会う。主によって決められた定めだったんだよぉ」


「お断りって言ったはずだけど」


 一方的で、押しつけがましく、私の気持ちなんて欠片も考えていない。 


 なにが運命だ。


 そんな未来を押し付けてくる存在は、神ではなくて悪魔だろう。


「可愛いなぁ、照れちゃって」


 話が通じない。


 豊田の妄言はだんだんとエスカレートし始めていた。


「……約束を果たして」


「仰せのままに。でも一応部屋に入っておいてくれるかなぁ」


 豊田が目の前を通る時、ふたりがかりで飛び掛かれば拘束できる、なんて考えは読まれているみたいだった。


 仕方なく牢の入り口を閉め、南京錠もかけておく。


 またも満足そうに何事か呟いていたが、不快なため意識から締め出して耐え忍ぶ。


「ああそうそう、君たちがきちんと約束を守るように、このオバサンにはお薬をたっぷりかがせておいたからね」


 だから、黒瀬はピクリともしなかったのだ。


「五体満足で戻せと言っただろう! ドクター・ドリームは危険な幻覚剤なんだぞ!」


「そうだねぇ。だから五体はきちんとついてるよぉ。足のケガだって治療してあげた。約束通りじゃないか」


「くっ」


 水内は件の薬についての知識を持っているようだが、私はどのくらい危険なのかすら知らない。


 覚せい剤などの違法薬物と比べて危険度は上なのか下なのか判断できなかったが、水内の反応から察するに、それらと比べてもそん色は無いほど危険なのかもしれなかった。


「大丈夫だよぉ。オーバードーズが起こっても、治療薬はきちんとある。逆に言えば、僕に何かするとオバサンに何かがあった時、絶対に助からないってことなんだけどねぇ」


 やはり豊田という男。頭がおかしいように見えて存外抜け目がない。


 保険をかけられれば私たちにはどうすることも出来なかった。


「薬が抜けるのは明日の朝ぐらいだから、それまではおとなしくしててねぇ」


 豊田はにんまりと意地の悪そうな笑みを浮かべ、私にウィンクをひとつよこす。


「分かった? 美亜ちゃん」


「……私の名前を呼ばないで」


 実行するかどうかは別として、深夜に抜け出すためには黒瀬を見捨てるしか方法はなさそうだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る