第7話 トウボウ

 私はまだ腕を捻り上げていたが、豊田は無理やり体をぐるりと回転させて私と正対する。


 普通ならば肘が壊れることを案じてこんなこと出来るはずが無いのに、豊田は痛みなど感じていないのか、余裕の笑みを浮かべていた。


「早くっ!」


 もう黒瀬は鍵を拾ったのだろうか。


 南京錠を開けたのだろうか。


 見えないし、分からない。


 お願いだから早くしてくれと、胸の内で懇願する。


 人数が増えれば、男の人が来てくれれば、この状況は逆転するはずだから。


「悪あがきはここまでぇ~」


「くっ」


 もう、もたないっ。


「こ――のぉっ!」


「うおっ」


 人殺しの正面に立つのは怖いだろうに。


 先ほどまでは、声も出ないほど怯えていたのに。


 清水は勇気を振り絞って鉄格子のすき間から腕を伸ばし、無我夢中で豊田の両足へと抱き着いた。


 たぶん、意識的にやったのではないだろう。


 腰元のフックに引っかけられていた鍵を奪うためにしゃがんでいたからその様な行動になったのだ。


 しかし、少女の腕はちょうど豊田の膝裏を刈り取る形になり、殺人鬼は驚きに目を見開きながらバランスを崩す。


 その隙を、逃すわけにはいかなかった。


「――ふっ」


 思い切り腕を引っ張って、もう一度豊田を鉄格子に叩きつける。


 頭蓋と鉄がぶつかり、取り付けられた錠前がガラガラと音を立て、豊田の悲鳴を飲み込んだ。


「今豊田を拘束してるから、早く出てきてっ!」


 廊下の暗闇に私の怒鳴り声が吸い込まれていく。


 返事は無かったが、きっと逃げるために動いてくれるはずだと信じて豊田へと意識を戻した。


 私は豊田の左手首を掴み、右腕を肘の内側に差し込んで、抱き着くようにして豊田の左腕の動きを封じる。


 これで豊田は両足を拘束され、左半身を鉄棒と鉄棒のすき間に埋める形となった。


 ちょっとやそっとの力では脱出など不可能のはずだ。


 右手は空いているが、幸い廊下は1メートル以上ある。


 壁に張りついていれば、触れられることは無い。


 大丈夫、逃げられる。


「ずいぶんと、やんちゃだねぇ。ここまでする女性ひとは初めてだよぉ」


「そう、じゃあみんないい人だったのね、あなたと違って」


 相対的に見れば、どんな悪人だろうと豊田よりはマシだ、なんて意味を込めて皮肉った。


「君は特別だよ。だから、ますます欲しくなっちゃったぁ」


「何度言われても、無理なものは無理だから」


 食いしばった歯のすき間から荒くなった息が漏れる。


 私は全力で押さえつけているというのに、豊田は余裕綽々といった様子だった。


 早くしてくれと、内心で何度目かの叫び声をあげた時、ようやく暗闇の中から黒瀬がで姿を現した。


 足は小鹿のようにガクガクと震え、手は細かく振動して鍵束がせわしなくチャリチャリと音を立てている。


 メガネの下の瞳もまともに焦点が定まっておらず、あれほど私を罵倒した気概は欠片も感じられない。


 だがそれよりも重要なのは、彼女以外に誰の姿も見えないという事。


 黒瀬は、男性二人を助けることなく自分だけ逃げようとしているのだ。


「アン――」


 罵声を浴びせてやろうとして、口を開けたところで気づく。 


 彼女に悪意があるわけではない。


 ただ逃げたいだけだ。


 自分を守ろうとするあまり、他人のことにまで思考が及んでいないだけなのだ。


 そんな彼女を怒鳴りつけて更に委縮させたところで状況は好転しない。


 更に悪化していくだろう。


 だから私は思考を切り替える。


 黒瀬がもっと話を聞いてくれる方法を模索した。


「男性二人が入れられてる牢屋の鍵を開けたら守ってもらえるからっ!」


 もっと彼女の利益になることを――。


「開けなくても鍵を牢屋の手前で落とすだけでもいいっ!」


 より彼女が安心する手段を――。


「そこの入り口の南京錠をかけるだけでもいいのっ! 入り口の錠を落とせば、豊田はここに閉じ込められる。あなたを追いかけることは出来ないっ」


 お願いだから動いて。


 鍵を持って固まられたら、それこそ終わる!


「あ……え……う……」


「黒瀬さんっ!」


 私の祈りが届いたのか、それとも名前を呼ばれたことでようやく頭が回り始めたのか、黒瀬はようやくヨタヨタと頼りない動きで暗闇の方へと戻っていく。


 彼女はどうやら男性を解放する選択肢を選んだようだった。


「あなたの相手は私たちふたりじゃなくて男の人ふたり」


 私の体力もすり減っている。


 もう間もなく押し負けるだろう。


 その前に出来ることはなんでもする。


「存分に可愛がってもらえるんじゃない? 嬉しい?」


 気を逸らすために、慣れない挑発をしてみたのだが、その効果のほどはたかが知れていた。


 せいぜい豊田の右眉が、5ミリほど上に持ち上がった程度だ。 


「男はあっさりしてて美味しい、かなぁ。お肉もたくさん採れるしね」


 ヒッと足元から引きつった様な声が聞こえてくる。


 豊田にとってはただ言い返しただけで、ジャブですらない。


 しかし、清水にはそれがシャレになっていないようだった。


 清水も、無理に勇気を振り絞って殺人鬼に立ち向かってくれているのだ。


 現在進行形で精神力が削れていっている。


 もう限界も近いだろう。


「自分のでも食べてれば? アンタの二の腕、ぜい肉が付きすぎじゃない?」


「そういう君はずいぶんと肉付きが悪いね。そこは僕の好みじゃないなぁ」


「人の身体的特徴をあげつらうヤツは嫌いなタイプだから」


 言葉のナイフが飛び交って、互いの心を抉っていく。


 ただ、この人でなしは、そんなやり取りすら楽しそうであった。


「お嬢さんっ」


「静城さん、あとは俺たちに任せてくれっ!」


 牢から解放されると同時に飛び出してきたのか、ふたりの男性が走り寄ってくる。


 その姿のなんと頼もしい事か。


 私でなければ豊田は食いついて来なかっただろうから、私が前線に立つことになったのは仕方なかったが、次があるとすればもう遠慮したかった。


 なんて考えていても、私は気を抜いていたわけではなかったのに――。


「はっ」


 それは、失笑だったのだろうか。


 豊田の口から音が漏れると同時、彼のからっぽの右手の中に、一本のナイフが現れた。


「――――あ」


 止める暇などなかった。


 うえき秋鷹あきたかが先頭に立っていたのはきっとこのためだったのかもしれない。


 病気で未来の無い彼が、せめて自分の命が他人のために使われることを、求めていたのかもしれなかった。


「樹さんっ」


 水内が警告を発したところでもう遅い。


 白刃が閃き、一瞬の後に樹の首筋から血が噴水のように吹き出す。


 それで、終り。


 樹は声を発することも、表情を変えることも無く、まるで眠る様にその場にくずおれる。


 まばたきをするほどの短い時間で、人の命が失われたのだった。


「カッ……カックックックックックックッ……」


 カスタネットの音を、100倍ぐらい不快な音にしたらこの笑い声になるだろうか。


 豊田は心から愉しんでいた。


 人を殺したことではない。


 私を驚かせたことを、だ。


 そのぐらい豊田にとって、人殺しは身近なものなのだ。


「ねえ、僕はいつでも君をこうすることが出来たって、分かってるかなぁ?」


「…………」


「君は僕に生かされていたんだよぉ」


 足にしがみついていた清水の手が、死を前に恐れ、緩む。


 少女は理解したのだろう。


 今この場で一番力を握っているのが誰かを。


 この閉じた世界を本当に支配していたのが誰だったのかを。


 私たちは、手のひらの上で踊らされていたただの虫けらだったのだ。


「いやぁぁぁぁっ!!」


 樹の死がようやく生存本能のスイッチを入れたのだろう。


 絹を裂く様な悲鳴が上がり、未だ自由の身であった黒瀬が勢いよく走りだした。


 豊田の横を走り抜け、この牢獄と外とを隔てる二重扉をくぐって、その先の階段を駆け上っていく。


「あーあ、逃げられないのに」


 そう呟いた豊田が黒瀬の後を追いかけようとして――


「ん?」


 振り返って私を、未だ抱きとめている私の腕を見る。


「ねえ、なにしてるのかなぁ」


「別に。あなたを引き留めてるだけだけど」


 ナイフを持っている。


 力も強い。


 人間を殺すことに長けている。


 息をするように人間を殺し、そのことに対する抵抗がまったくない。


 ――だからどうした。


 私はそんなことで怯んだりはしない。


 そもそも私は死にたかったのだ。


 死は脅しにならない。


「あのオバサン。さっき君のことを罵倒しまくってたよね?」


「それがなに?」


 私に対して悪いと思われる様なことをした。


 けれどそれは、私が悪とされることをしていい理由にはならない。


 私は私で居るために、私の判断基準で悪と思われることをしないだけだ。


「逃げる手助けをめる理由にならないだけ」


「不可能だと思うよ」


「どれだけ距離があろうと時間をかければ町につくだろうし、その手前でスマホが繋がる様になるかもしれない。とにかく、私が今ここであなたを捕まえておけばおくほど、あの人は逃げ延びる可能性が高く――」


 カシャンと、小さな金属音が聞こえたと思ったら、聞き覚えのある悲鳴が、私の鼓膜にまで届いたのだった。

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