第5話 ショクジ ノ ジカン
この牢獄の入り口、鉄格子で出来た二重扉の向こう側に、豊田が音もなく佇んでいる。
彼はニタニタと口が裂けたのかと思うほど口の端を吊り上げ、嫌らしい笑みを浮かべていた。
見られていた。
聞かれていた。
どこから私たちの話を聞いていたのか?
いや、どこからであろうと分かるはずだ。
どうやって逃げるのかを私たちが相談していたことに。
誰もがこんな状況に置かれたら、逃げることを考えるだろう。
でも、予想と現場を押さえられるのは天と地ほどの差があるのだ。
「……なにか、用?」
私がその言葉を口にした瞬間、ピタリと喧噪が止む。
言葉の真意を理解したから――ではない。
恐れたのだ。
「ヒッ」
しゃっくりのように短い悲鳴が背後で上がる。
体にまとわりつく様ないやらしい気配にあてられて、子どもの清水には恐怖を抑えきれなかったのだろう。
私以外の人が豊田の存在を目にすることはできない。
それでも
「んんんんん~~? ご飯の時間だよぉ」
キィっと音を立てて鉄格子が開き、地下に豊田が入ってくる。
水が入っていると思しきペットボトルを小脇に挟み、手には直に赤黒い塊を持っていた。
「そう」
私は努めて恐怖を漏らさない様、お腹に力を入れて豊田を睨みつける。
「メニューはなに?」
聞いた途端、豊田は目をとろけさせながら「あぁぁあぁぁぁ~」なんて奇声を発する。
「そうだねぇ。なんの変哲もないお水、と! 干し肉」
いちいち癇に障る言い方だ。
ペットボトルにはなんのラベルも貼ってないため、なにかを混入することはきっと可能だろう。
それよりも問題なのは、干し肉の方だ。
牛や豚なら問題はないが、私はこの男が人間を食べることを知っている。
なおかつ、豊田は先ほど人間を殺したばかりであった。
「なんの肉?」
「んんんぅ~~?」
豊田はずいっと鉄格子の前にまで顔を近づけてくる。
鉄の棒を挟んではいるものの、絶対に何もできないというわけではない。
手の届かない距離にまで下がれば安全を確保できるのだが、それは絶対にしたくなかった。
「知りたい?」
「同じことを言うのは好きじゃないのだけど」
豊田は目と頭を左右に揺らし、
「ジビエだよぉ」
なんて笑いながら言ってくる。
「答えになってない」
ジビエとは、狩猟で捕まえた野生動物の肉のことである。
つまり、鹿であれハトであれイノシシであれ、なんでもジビエになるのだ。
それこそ、先ほど捕まえた人間であろうとも、人間を喰らうこの男にとってはジビエになり得た。
「動物の種類は?」
「イノシシ……だったかなぁ」
「人間でないのなら受け取る」
「それはもちろん、人間じゃないよ」
太鼓判を押されたところで信用はできない。
そして、この男の表情から嘘を読み取るのは困難だ。
本当に人間でないのかどうかは、判断を付けられなかった。
「だいたい、人間の肉は美味しいけど匂いがね~。女の人は特に、安っぽいお菓子の匂いがするんだよ」
「……は?」
「グミとかあるでしょ。ああいった香料が体に残ってると、もの凄く
都市伝説で、保存料の入った食べ物をよく食べて来た現代人の遺体は腐りにくい、なんて話を聞いたことがある。
あれは与太話だと思っていたのだけれど、この話には何となく真実味を感じた。
なにせ、本当に食べている人間の言うことなのだから。
「高級和牛に駄菓子の匂いがついてたりしたら台無しでしょ?」
「だから私たちはこうして匂いが抜けるまで放置しているってこと?」
知りたくもない知識が付随してきたとはいえ、私たちが殺されるまで間があるというのはいい情報なのだが……。
「少し、違うかなぁ。儀式まで生かしてるだけだよぉ」
「儀式?」
「おっと」
言ってはならない言葉だったのか、それともその情報を私に聞かせることが目的だったのか、豊田はわざとらしい仕草で口を覆ってみせる。
外に出ている瞳だけは、
「はい、ただの水」
あからさまな話題の逸らし方だったが、問い詰めたところでなにも出てこないだろう。
それに、これから何をされるかなんて聞いたところで意味はない。
あとどれだけ時間が残っているか、の方が重要だ。
そしてそれはもう手に入れた。
これ以上話したところで益は無いだろう。
「……一本だけ?」
この牢にはふたりの人間が投獄されている。
500ミリリットルのペットボトル一本では、明らかに物足りなかった。
「一度に持てなくてねぇ」
「そう。後から持ってきてくれる……ってわけじゃなさそうね」
「やることが他にもあるからねぇ。さっきの獲物を解体しないと。そろそろ血抜きも終わるし」
――ありがたい。
「なるほど、ね……」
頷きつつからっぽの右手を差し出す。
ただし、警戒して鉄格子を越えてまでは手を伸ばさなかった。
「納得してくれて僕も嬉しいよぉ」
豊田は干し肉を脇に挟んだペットボトルの上に乗せ、空いた左手で私の右手を包むように持つ。
豊田の手は燃えるように熱かった。
それだけ彼は、私に対して興奮しているという事だろう。
触られたくないが、判断材料がひとつ手に入ったのだから仕方がない。
好意なのか、好物に対する好奇心なのかは分からないが、それだけ私に対して興味を抱いているのは本当の様だった。
「はい、ちゃんと飲んでねぇ。水分補給しないと体に悪いから」
「アンタが殺すのによく言う」
水を受け取ると同時、すぐさま手を引っ込める。
本当は目の前で手を拭ってやりたかったが、それよりも先にすべきことがあった。
私はすぐさまキャップを捻り、ペットボトルの蓋を開ける。
新品を開栓する時の、プラスチックが千切れる音は聞こえなかったが、そんなことは見たら分かる。
私がしたかったのは――、
「わぶっ」
目の前でだらしない顔で私を見ている豊田の顔面に、水を引っかけること。
豊田は目を閉じ、さして慌てる様子もなく顔面を拭った。
「その様子だと、本当にただの水みたいね」
一応、8割ほど残った水を確認してみるが、無色透明でガラスのように
念のために飲み口の側面を袖で強くこすり、毒を盛られる可能性を全て潰してから水を口に含む。
――味も、臭いもおかしなところはない。
それから、豊田の表情にも特別な変化は見られない。
本当の本当に、なんの変哲もないただの水だった。
「あなたは僕のことが怖くないのかなぁ。とっても怖い人殺しだよ、僕」
先ほどまであった好奇のまなざしが薄らいで、代わりに不快感が浮かび上がっていた。
少し、やりすぎてしまったのかもしれない。
しかし、そんなことは今さらなのだ。
私は自殺未遂者である。
そもそも死を望んでいた人間だ。
豊田が人殺しであることは、なんら脅しにもならなかった。
「……んくっ。別に」
水を飲み下してから返事をすると、もう一度手を差し出した。
「お肉、渡して」
私が水をかけた際、豊田は持っていた物を全て落としてしまっていた。
いつもならば地面に落ちた食べ物など食べようという気にはならないのだが、今だけはそんなことを気にしてはいられなかった。
「…………」
「なに、怒った?」
「……いや」
豊田は頭を振ると、干し肉を拾って手渡してくる。
先ほどのように、両手で包み込まれるような渡し方をするのかと思いきや、いたって普通に私の手の上に置いた――
「――っ!」
なんとか、悲鳴だけは堪えてみせたが、強い力で腕を引っぱられたせいで体勢を崩して鉄格子に頭を打ち付けることになってしまった。
「君を、僕のものにしたくなったよ」
豊田の吐息が頬に当たる。
彼我の距離は、わずか数センチ。
ドブ川のように濁った瞳が、私の視界いっぱいに広がっていた。
「四番目の奥さんにならない?」
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