博愛主義者の彼女

 あの人はいつもそうだ。自分自身のことよりも、私のことを優先する。

「もっと自分を大切にして」

「うん。気を付けるよ」

 私の気持ちはおそらく、十分伝わってる。でも、彼は変わらない。変わりようがない。

「私の気持ちにもなってみてよ。君はいつも人のために動いてばかりで、危なっかしい。自分の意見を全然言わないし、自分勝手なところが全然ない。全然ないところが、かえって自分勝手だよ」

 自分勝手なのは私の方だって、わかってる。

「ごめんね。でもそういう生き方しかできないんだ」

 わかってる。

「私を本当に愛してるなら、もっと、怒ってよ」

 あの人は黙って首を振るのだ。困ったように肩をすくめて、微笑むのだ。


「あの人、いい人だよね。○○が羨ましい」

「そうかな。そうでもないよ。うん」

「そうなの? 裏表がすごいとか?」

「いや……むしろ全く裏表がないところとか。それか、私に何も見せてくれないところとか。そこに何かがあるのはわかってるんだけど」

「何それ怖くない?」

「怖くはないよ。うん。怖くはないんだ。知りたいと思う。というか、知りたいと言ったら何でも教えてくれる。どんな恥ずかしいことも……でも、あの人が今何を考えているか、全然わからない」

「どういうこと?」

「○○にはわからないよ」

「どういう意味よ、それ」

「乙女心は複雑なの」

 普通の人は、陳腐な言葉が好きなんだ。普通の言葉。馬鹿みたいだ。そんなんじゃ何も伝わらないのに。


 あの人は、どうして打ち明けてくれないのかな。違う。打ち明けてくれてはいる。赤の他人にも、あの人は自分の弱みを簡単に見せてしまう。ここを触られるとつらいです、と恥ずかしげもなく表明する。いや、恥ずかしそうに、ちゃんと恥ずかしそうにしながら言う。


 最初から、何も隠していないのは知ってる。でも、この違和感は拭えない。


 わかってるんだ。ただ特別扱いしてほしいだけなんだ。ひいきしてほしい。ひとりの女として、他の人たちと区別してほしいと思ってる。でもそうじゃないんだ。

 彼は全ての人を同じように愛している。だから、私のことを特別愛しているわけじゃない。

 でもたまたま、あの人を一番求めているのが私だったから、あの人はそれを受け入れた。私よりあの人を愛せる人がもし現れたら、私はきっと……でも捨てられはしないだろうな。あの人は、曖昧な態度を崩さないだろう。

 根本的に、あの人は自分のことがどうでもいいんだ。どう思われたっていいと思っている。どうなったってかまわないと思ってる。あの人は、話したこともない外国人ひとりのために死ぬことができる人間なんじゃないかと思う。

 私を助けるように、見知らぬ老人を助けられるだろう。

 

 それが、つらいのかな。


 多分、私は愛されてない。誰にも愛されてないし、これから愛されることもない。あの人は誰よりも愛情深い人だって、私は知ってる。だから、あの人はみんなを愛してる。私はわがままであの人じゃない人に愛されようとするかもしれない。でもそうなったとしても、あの人は何も変わらず私を愛するだろう。反して、私はあの人から受けている愛情より多くのものを、別の誰かから受け取れるようには思わない。

 博愛がもっとも強い愛だなんて、空しいな。でも他に何があるだろうか?


 たったひとりの人だけを世界の価値と定めるのは、明らかに幻想だ。妄想だ。そして、妄想はちょっとした揺らぎで崩れてしまう。

 あの人は、世界の全てに価値を見ている。あるいは、どこにも価値を見ていない。あの人を現実を見据えている。現実を見据えたまま、現実的な愛情をもっている。全てのものに対して、愛情を注いでいる。太陽のような人だ。


 あぁわかったかもしれない。あの人は自分自身を愛すように私たちを愛しているんだ。普通、世界ひとつと自分ひとつの価値が釣り合っているのが人間なのかもしれないけれど、あの人は、どのような相手に対しても対等な価値があるものとして付き合ってる。だから、自分を大切にしていないように見えるんだ。

 あの人は、目の前にいる人に常に最大の価値を与えているんだ。恋人や家族と接するようにあかの他人と接するから……だから、つらいのかもしれない。私が。恋人である、私が。


 もっと単純な理由なのかもしれない。ただの嫉妬。私だけが愛されていたいという惨めな独占欲。

「私以外愛さないで」

 冗談交じりでそう言っても、あの人は黙って首を振る。嘘をつかない人だから。

「ごめんね」

「謝らないでよ」

 頷かないでよ。


 でも他に何があるのだろうか? これ以上ないくらい幸せなのに。幸せな現状で、今までの人生からは思えないくらい満たされているのに。それなのに、なぜ苦しいのだろう。

 苦しみすら、抱きしめていたい、なんて。あまりにもポエミーだな。


 今は、このままでいいや。

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