内海ちゃん:高校時代の話

 大学の友人が自殺未遂をしたと聞いたとき、最初によみがえった記憶は高校時代の同級生、赤城君のことだ。


 私が通っていた高校は進学校にしては珍しく野球の強豪校で、彼はそこで一年生からずっとエースとして活躍していた。にもかかわらず、彼は二年の夏というもっとも輝かしい時代の始まりのとき、怪我をした。その怪我の名前は忘れてしまったが、ずいぶんひどいようで、プロはおろか、野球をそのまま続けることすら困難になってしまったとのことだった。

 彼の知人たちは皆彼に同情したが、かといって彼から野球の才能を奪ったら、後には少し性格と顔つきが悪くて、背が高いだけの青年だけしか残らなかったので、皆すぐにその同情心を失った。彼自身もかなり精神的に参っていて、何かあるたびに周囲に当たり散らしていたため、浅く広く付き合える友人すら失ってしまっていた。

 今まで支えてきてくれた両親への感謝の気持ちすら忘れ、自分の内側に引き込まってしまうことは必然であったように思う。


 私は別に彼と特別親しい関係にないただのクラスメイトだったが、私は彼の心が理解できた。教えられなくても、理由も何もなく、ただ直感として、私は彼の苦しみが理解できた。

 でも理解しただけで、私は何もするつもりはなかった。というのも当時苦しんでいるのは彼だけじゃなかったし、今までこのような感覚によって誰かを理解することは何十回もあって、その中のひとつに過ぎなかったからだ。


 でも他の人たちと違って赤城君が私の記憶の中に鮮明に残っている理由は、その後私と多少の現実的なつながりがあったからだ。記憶というのは、やはり現実的なつながりがあってこそ残るものなのだ。


 彼は勉強と野球を両方ともやりたいという理由でこの学校を選んだ人で、住んでいる場所は少し遠い場所だった。だから登下校はいつも独りだったし、帰宅部になってからもそれに疑問を感じたり、あるいは興味を持って一緒に帰ろうという人は誰もいなかった。

 私は自分の部活が休みだったとき、学校から最寄り駅の途中、ため息をつく彼の近くを偶然歩いていた。

「死ぬしかないか」

 まるで誰か聞いてくれないか、というような声色だった。それはほとんど「助けてくれ」と同じ響きをしていた。でも、死ぬ気はない様子だった。だから私はほっておくことにした。

「もう、無理かもな」

 電車が同じ方向だということをその日はじめて知ったというくらい、私は赤城君のことを全然知らなかった。でも電車の中で呟かれたその言葉は、さっきより少しだけ重たかった。私は私の心が少しぐらついたのに気づいた。

 そして、私は降りるタイミングを見失った。理由はいくらでもこじつけられるけれど、でもやっぱりわからない。私は理由なく、普段自分が降りる駅で、降りないという選択をした。

「内海、お前こんな遠くに住んでたんだな」

 ほとんど電車から人が消えてから、赤城君は消え入りそうな声で私に話しかけた。思えば、わざわざ私は赤城君の座っている席のそばのつり革につかまって立っていたのだ。何の意図もせず。

「ううん。降りれなかっただけ」

 私がそういうと、彼はバカみたいだと言いたげな表情を浮かべた。軽蔑に近い表情だった。

「お前、意味わからん」

 私は声を出して笑った。その言葉にはどこか親しい雰囲気があって、私自身が私に対して思っている感情によく似ていたからだ。

「よくいわれるし、私もそう思う」

 私の声が明るかったからだろうか、赤城君はむっとした。きっと独り言を私が聞いていたことを知っていたからなのだろう。つまり、あんなネガティブな言葉を言った相手の前で、こんなに明るく振る舞うことに、違和感だとかなんだとかを感じたからかもしれない。

「お前、自殺を考えたことがあるか」

「ないよ」

 私が即答すると、待っていたとばかりに早口でまくしたてた。

「じゃあ俺が今からお前の前で自殺をすると言ったら、止めるか」

「止めるよ」

 なぜ即答できたのか、わからない。でも私ならそうするだろうなと、私に対してそう思ったのだ。そうせずにはいられないような気がしたのだ。

「ほんとお前、意味わかんないな」

 赤城君の声からはやはり親し気な気持ちが伝わってきて、私は嬉しかった。


 私は赤城君が降りたのと同じ駅で降りて、そのまま反対のホームから電車に乗って家に帰った。私も赤城君も、私が何をしたかったのかよくわからなかったが、それでよかったのだと思った。


 赤城君は、私がいなかったら死んでいたかもしれない。私は帰りの電車の中でそう思って、少し暖かい気持ちになった。赤城君が死んでいても構わなかったかもしれないけれど、死んでいなくても構わなかったことの方が確からしかったから、その蓋然性が嬉しかった。


 赤城君は死ななかったけれど、そのあと私のストーカーになった。何か事あるごとに私につっかかってきて、時には嫌がらせもしてきた。

 一番ひどかったのは、放課後に呼び出されて「抱かせてくれ」と頼み込んできたときだ。

「なんで?」と聞くと「そうじゃないと、俺は死ぬ。俺を助けるためと思って抱かせてくれ」と答えた。

 私は笑った。

「やだよ」

「俺が自殺してもいいのか?」

 深刻そうな面持ちを見て、私はその馬鹿みたいな演技にもっと笑いがこみあげてきた。そして彼が、かつて付き合ったことのあるちょろい女のことを女の代表者だと心の中で思っているのを私は感じて、また笑った。

 無理やり押せば、ヤらせてくれる。女なんて結局心のどこかで男に必要とされたがっている。内海は誰とも付き合ったことがないらしいし、優しい女だから本気で頼めばヤらせてくれる。

 でもそうじゃなかったら? もしもこいつにも拒絶されたら? そしたら俺は死ねるかもしれない。

 そんな表層の思考が理解できたうえで、深層の思考では彼は自分がそのことについてどうでもいいと思っていることを私は感じた。だから、とても面白かった。

「もし赤城君が、そんなつまんないことで死ぬような人だったら、死ねばいいと思うよ」

「は?」

 私の口からそんな残酷な言葉が出てきたことが、意外だったのだろう。不意打ちを食らったみたいな顔をしていた。

「お前、そんなこと言う奴だったんだな」

 その軽蔑の声は、もはや自己嫌悪だった。

「赤城君はそんなつまんないことで死ぬ人じゃないよ」

 赤城君は焦ったように言い返す。

「でも俺はあの電車の中で話した日、本気で死ぬつもりだった。あのときお前が……俺は死んでいたかもしれない」

「それは、きっとあの時の君の痛みはつまらないものじゃなかったからだと思う。つまらなくないことで死ねるのは、つまらなくない人だけだし、私はつまらなくない人が死んでしまうのは残念だと思う。でももし君が、どうでもいいと思っている女の人を抱けないというだけのことで死ぬくらいつまらない人だったら、ここで死んでいいと思う」

 私は笑顔のまま、ゆっくりと子供を諭すようにそう言った。彼は、前にいった時のように「やっぱりお前、意味わかんねぇ」と親し気に言った。軽蔑の混ざったその顔と声色で。

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