第4話 落としていたもの

 亜衣を寝室に運んだ後、勇人は洗面所に逃げ込んだ美咲を待った。しかし、待てども待てども、美咲は戻ってこない。ただ待っているだけならば、テレビのバラエティでも観ながら時間を埋めたことだろう。しかし、楽しく大笑いする精神状態にその時の勇人はなかった。

 とりあえずビールでものんで時間を埋めようと思ったが、冷蔵庫にビールは入っていなかった。そうか、だからビールを買いに行っていたのか。缶ビールは箱の中に沢山入っていたけれども、冷やされたビールはなかったからわざわざそのためだけに行ってくれたのか。

 袋に入れられたままのビールは触ればひんやりとしているものの、冷えたビールには程遠い。グラスに注いで口をつけたビールは案の定ぬるかった。しかしいつもなら「ちゃんと冷やしておけよ」と注意するはずの勇人はだまってぬるいビールを流し込んでいる。いらいらの八つ当たりを最低な形でしてしまった。美咲への懺悔も込めて、残りのビールは直接口をつけて一気に飲み干す。

 視界に散らかしっぱなしの亜衣のおもちゃを映しながら思う。亜衣は甘えっ子で、おませさんで、少々ワガママなところもあるけど、同じ年頃の子供とくらべて出来ることも多いから、問題はないと思っていた。何せまだ五歳だ。あまりガミガミしすぎて消極的な子になってしまってもいけないし、大きくなれば段々と聞き分けもよくなっていくのだろうと楽観視していた。

 だがそれは家を開けている飽くまで父親としての意見なのだろう。毎日毎日、片付けろ、と言っては無視されて、根負けして自分が片付けると、また散らかされる。更には自分のせいにされる。それでも子供のすることなのだから、または自分のせいなのだと構えていられるのは相当な精神力を必要とすることだろう。

 考えれば考えるほど勇人は恥ずかしくなる。そんな事を考えてやろうともせず、挙句の果てには浮気者扱いか。馬鹿野郎にも限度がある。いつもは温厚な美咲だってそれは堪忍袋の緒がきれることだろう。

 しかしそうなるとあのハンカチの出所はどこだったのだろう。ふとそう思い、この期に及んでまだあんなものにこだわっているのかと勇人は自らを恥じた。

 結局美咲は、日付を越えても洗面所に閉じこもったままだった。



*      *      *



 携帯電話のバイブで勇人は目を覚ました。頭が重い。睡眠不足のせいだろう。視線を横にやると、隣のベッドで寝ている美咲の背中が見える。美咲はいつも一番先に起きるのだが、日付を越えてなお籠城を続けたせいだろうか、今日はまだ起きる気配はない。

 起こさないようにそっと、ベッドから降りると背後から「パパ……?」と亜衣がの声が聞こえる。いつもは美咲の横が定位置なのだが、昨日のこともあってあえて場所を変えたのだ。

「ママ……まだ寝てるの?」

 キリンのパジャマを着た亜衣は目をごしごしこすりながら尋ねてくる。

「うん、今日はおねぼうさんさせてあげよう。亜衣ちゃんもまだ寝てていいよ」

 うん、と首を傾げつつも亜衣は布団を被り、寝息を立て始める。

 時計はまだ六時を回ったばかりだ。幼稚園には七時に起きれば十分間に合う、といっていたから大丈夫だろう。

 音を立てないように抜き足、差し足で風呂場へと向かう。眠気ざましの意味もあるが、昨日美咲が籠城したせいで風呂には入ってないし、顔も洗っていない、歯も磨いていない。熱めのシャワーを浴びると、眠気は覚めてきたが憂鬱な気分は消えなかった。昨日も曖昧な感情を抱えてはいたが、種類はまるで違っていた。昨日は美咲を責めていたが、今の対象は自分だ。ほとほと勇人は自分に呆れていた。そして具体的にどうすればいいか解らない自分が情けなかった。

 昨日はごめん。もう疑ったりしないから。もっと家のことにも協力的になるよ。そんな簡単な言葉を口にすることが出来なかった。本当に情けない。

 風呂を済ませ、寝室を覗くとまだ二人とも夢の中だった。一時間は早いけれど、今日はこのまま出て行ったほうが良さそうだ。朝も昼も、飯は買っていけばいいだろう。

 勇人は寝室の床に脱ぎ捨てたスーツを拾いに、そっと中に入り、起こさないように部屋を出る。ワイシャツが少々汗臭かったが、致し方ないだろう。そのまま着こみ、ズボンをはき、ベルトを締める。ネクタイが上手くしまらず、鏡をみてようやく形になった。手がもたついている姿が鏡に映っているのをみながら勇人は思う。美咲がいないとこんなことも満足にできないのか、と。

 偉そうに部下に指図する「高村主任」である自分の姿を想像して笑いたくなった。仕事の内容とか、指導のことなどに関しては自分の力に違いない。だが、クリーニングに出されたスーツ、ちゃんと洗われてしみ一つない真っ白なワイシャツ、しっかりと締められたネクタイ、ぴかぴかに磨かれた革靴。形になって見えるものは殆ど美咲の支えあって作られているものなのだ。当たり前すぎて忘れていた。

 着替えが終わって再び寝室を開けた勇人は、寝ている二人を起こさないようにそっと呟いた。

「行ってきます」



*      *      *



 早朝の会社は、守衛の他は殆ど人がいない。受付嬢すら出迎えてくれない。たった一時間早いだけでこうも違うものなのか。初めて来た建物のように、物珍しそうに辺りを見回しながら、勇人はいつもの部署へと向かう。

 同時に入社して間もないころをの事を思い出していた。その頃はやたらとはりきって誰よりも早く、会社に来ていたものだと。慣れていくにしたがって、間に合う時間にくるようになってしまっていたが。

 エレベーターのボタンを押しかけていた手を下ろし、階段へと向かう。一段ずつ踏みしめると、また昔の光景が浮かんでくる。


――高村、階段は一段ずつ、歩いて上り下りしろ。


 当時の教育係、今の課長に一段飛ばしで駆けていては良くしかられていたっけな。思い出しながら、勇人はその昔、課長に良く言われていた言葉をなんともなしに呟いていた。

「初心忘るるべからず……だったけか」

 誰もいない踊り場で、昨日の課長の言葉を思い出す。


――君、昔は無鉄砲でがむしゃらだったじゃない。


 どんな意図を込めて課長があんな事を言ったのかは解らない。だが自分が悩むべき所は、指導の方法とかじゃなく、もっと根本的で、実はもっとも重要なことではないだろうか。

 あれこれ考えているうちに、見慣れた部署の前についていた。一番乗りだとばかり思っていたのに、もう電気がついていた。

「高村主任?」

 呼ぶ声に振り向くと、片手にカップラーメンを持った片桐がいた。

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