第5話 落とし物を拾いに

 気まずい沈黙が流れ、とりあえず勇人は社会人として必要最低限の言葉を口にした。

「おはよう」

「おはようございます」

 相手も社交辞令として返すものの、後が続かず再び沈黙が流れる。

「とりあえず中に入れ」

「ああ……はい」

 訝しげな表情を見せたものの、言われた通りに片桐が中へ入る。続けて中に入った勇人は、もう一人先客がいることを知る。

「主任さん?!」

 雑巾を握り締めた中山が、目を丸くして勇人を見ていた。

「お、おはようございますっ!」

 慌てて頭だけ下げたせいで、前髪の一部が額につき、ひゃっと小さい悲鳴を上げる中山。おはよう、と返しておいて勇人は自分の席へとつく。

「いつも、こんなに早いのか?」

 仕事に関係ない問いかけをしたのが、余程珍しかったのか、真顔になる片桐と中山。いつもは十分前くらいに出勤するから、その間は当然雑談をする暇はないし、弁当派の勇人と、外食派の二人では昼休みも接点はない。亜衣が産まれたことを理由に、飲み会も出なくなった。仕事中は論外だ。とにかく世間話をすることなんて、出来ないに等しかった……いや、違うか。勇人は考えを改める。世間話なんて、他の班からは仕事中にだって聞こえてくる。支障がない程度にすら話題も振らず、また話題にも乗らず、固い雰囲気にしていたのは自分じゃないか。

「それはまあ、奥さんがご飯とか作ってくれて、ギリギリまでまったりと出来る訳じゃありませんから?」

 鼻で笑いながら、片桐がいい捨て、中山が青い顔して、か……片桐君駄目だよ。となだめている。それは独身か、所帯もちか、という話ではないじゃないか。のど元まで出かかかった言葉を勇人は押さえ込んだ。

 口うるさい上司が押し黙っているのを見て、上手に回った気分になったのか、片桐はこういった。

「もしかして、その仏頂面のせいで、奥さんとケンカにでもなったんじゃないすか?」

 勇人のコンビニ袋を見ながらニヤニヤとする片桐。当の勇人といえば、大半当たっているので何も言い返せない。そんな勇人の様子をみて、まさか図星だとは思っていなかったのか、片桐は真顔になってアレ……? とか呟き、中山は上司と後輩を交互にみながらおろおろと青ざめていた。手には雑巾をしっかりと握り締めたまま。

 反応に困ったのか、何事もなかったかのように席について、カップラーメンをすすりだす片桐。勇人もとりあえず朝食を済ませようと、コンビニ袋からサンドイッチを取り出す。

 雑巾を握り締めたままこそこそと中山が出ていき、普段はさほど広く感じない部屋が、勇人と片桐二人だけだととても広く感じる。その部屋の中を、がさがさと勇人が袋の中を漁る音と、片桐がラーメンをすする音だけが響く。仕事中に僅かな私語ですらわずらわしいと思うのに、何故今はこんなにも沈黙が落ち着かないのだろう。思った勇人は片桐に声をかけていた。

「俺は、そんなに仏頂面しているのか」

 麺をほおばったばかりの片桐は、ふぁい? と返した後、飲み込んで改めて「俺に聞いたんですか?」と尋ねてきた。他に誰がいるんだ、と問う前に片桐が口を開く。

「基本、いつもこんな顔してます」

 般若顔とまではいかずとも、匹敵するほどの形相で眉間にしわを寄せてみせる片桐。多少誇張はしているだろうが、とにかく険しい顔を常にしているだろうことはわかった。自分ではそんなつもりはなかったのだが。

「それは確かに、中山くんも怖がるだろうな」

 ぼっそりとした、勇人の何気ないひと言に、片桐はみるみる表情を険しくした。

「主任、今まで自覚なしだったんですか? 俺ならまだしも、中山先輩もう三年目なんでしょ? 主任になる前も一緒の班でやってたんでしょ? なのに、それって問題ですよ」

 他に誰もいないのからなのか、遠慮なしに片桐が話しだす。

 虚を突かれながらも、何故か勇人は懐かしさのようなものを感じ始めていた。漠然と感じるそれが何なのか、まだ勇人は解らない。

「もうこの際だから言わせて貰いますけどね。昨日の書類ですけど、手伝ったの俺なんすよ。先輩のお母さん、土曜に倒れられてですね、入院しちゃったんですよ。先輩お母さんと二人暮らしだから、つきっきりで看病してたそうです。だから土日は全然手、つけられなかったんですよ。で、一昨日頑張って再開して、でも一人では終わりそうになくて! で、偶然残業してた俺が延長して手伝った、とそういう訳ですよ。間に合わなかったら、主任に怒られちゃう、どうしよう、って泣き付かれたら放っておけないでしょう?」

 矢継ぎ早の片桐の言葉に、動揺を隠せない勇人。

「だったらそう言ってくれれば」

「言おうとしてたのに、主任自分の話押し切ったじゃないすか」

 全く……といい捨て、再びラーメンをすすりだす片桐。

 何かいいたそうにしているのはそういう事だったのか。思いながら同時に反省する。大したことじゃなかったから言わなかった? そうではない。上司の顔が怖かったから、内気な中山は萎縮して何も言えなくなってしまったのだ。

 そういう時はどうするのか、答えは今は解りきっていた。こちらから聞いてやればいいのだ。何故出来なかったといえば、中山のことを何も理解していなかったからだ。

 課長の言う通りだった。人には個性というものがある、そして同じ命令でもそれぞれに対応の仕方がある。機械に命令するのとは違う。当たり前じゃないか、そんなこと。

 のどを潤そうと袋を探るが何故かあるはずのお茶が見当たらない。買ったはずなのは確かなのに何故だろう。今日の行動を思い出し、答えに行き着く。電車の中で飲んで座席において、そのまま忘れてしまったのだ。いつものラッシュ時なら絶対にしない失敗に、勇人は溜息をついた。

 でもまあ、悔やんでもお茶は帰ってこない。自販機に行こうと鞄から財布を取り出した時に、どうぞ、と中山の声がかかる。デスクの隅には昨日と同じ、白いティーカップに淹れられたカモミールティーがある。

「なんで、いつもカモミールティーなんだ?」

「え……やっぱりカモミールティーお嫌いですか?」

 いつものようにビクビク肩を震わせている中山と、遠巻きに何かをいいた気に勇人を凝視している片桐。

「そうじゃなくて。いくらでも煎茶とかコーヒーとか常備してあるのに、わざわざ持って来るのかな、と思って……好きなのか?」

「いいえ、あの特別好きな訳ではないんですが……気持ちが落ち着くって聞いたのにで仕事中にはいいのかな、と」

 恥ずかしそうに俯く中山。ハーブティーの効果は正直何も知らないが、これはきっと中山なりの気配りの手段なのだろう。彼女なりに、ちゃんと他の人間のことを考えているのだ。そして、勇人はちょっと前まで中山が握り締めていた雑巾を思い出す。

「もしかして、いつも机が綺麗になっていると思っていたんだけど……君か?」

「は……はい。あの、私お仕事余り早くできなくて皆さんにご迷惑かけているので……せめて皆さんが気持ちよくお仕事できればと思いまして。その、勝手に机の上とかいじって申し訳ありません、でも何も見てませんので」

 頭を下げる中山に下げなくていい、と言ってから勇人はおもむろに口を開いた。

「いや、ありがとう。これも」

 そう言ってカップを持ち上げて見せると、中山は嬉しそうに顔をほころばせた。たった、ひと言ありがとう、と言っただけなのに。それだけで。

「お母さん、早く良くなるといいな」

「え。何でそれを……か、片桐君、言わなくてもいいって言ったのに……」

 顔を紅く染める中山に、「だって俺我慢できなかったんですもん」と片桐。そんな片桐を見ながら、勇人は少し前に感じた懐かしさの正体を何となく悟っていた。

 片桐は入社当時の自分なのだ。自分も彼のように学生時代と社会人とのギャップに戸惑って、良く上に反発していたものだった。理不尽なことには素直に憤り、問題児といわれたことが懐かしい。

 同じ部署の美咲と出会ったのも、その頃だ。同い年だけど、短大を出て二年早く社会人をしていた美咲は勇人よりもずっと落ち着いている大人の女性だった。少なくとも勇人にはそう見えた。勇人は自分にない落ち着きさに惹かれ、また大人しい美咲は勇人の正義感あふれる姿に惹かれ、一見真逆に見える二人ではあったが、そんな二人がやがて恋に落ちるのは自然の事だったのかも知れない。

 やがて結婚を決め、美咲は主婦としてきっちり夫を送り出したいと寿退社した。美咲は仕事の出来る社員だったから、皆彼女の退社を惜しみ、お前が主夫になれば良かったのに、とからかわれた。

 同僚達にとっては、新婚の勇人をからかいたいだけだったのだろう。しかし、正義感の強い勇人はそれを本気で受け止めてしまった。家で待つ妻のため、そして会社のために「ちゃんとした社会人」であろうと決心したのだ。

 それからは不用意に立てつくこともせず、黙々と仕事に取り組んでいくようになった。そうすると、めきめき成績が上がるようになった。始めは楽しいだけだったのか、次第に出来る自分に酔いしれるようになった。

 それが勘違いを生み出す、最初の原因になったのだろうと思う。自分は出来る人間なのだ、いちいち確かめなくとも、空気を読んで行動できるようにならなくては。そう思うようになっていった。

 だが、現実は違っていたのだ。自分の判断で勝手に状況を決めつけ、それで空気を読んでいるつもりになっていただけだ。仕事だろうと、なんだろうと、人との関わりなくて存在しえるものなど、ほとんどないというのに。

 家の事にしたって同じ事だった。美咲は仕事が出来たから、主婦業も大丈夫なのだと、いつも愚痴を言っていても、たくましく家を守ってくれるのだと、勘違いしていたのだ。

 馬鹿だな、いや大馬鹿だ。悔いながらティーカップに口をつける。いつも何も思わず飲み干していた中山のカモミールティーが、不思議と優しく感じた気がした。



*      *      *



「主任、受付から二番です」

 午前十一時を回った頃。取った受話器から聞こえてきた言葉を聞くなり、勇人は席を立った。課長がどこいくの、と声をかけてきたが聞き流して飛び出す。

 エレベーターを待つ時間すら惜しく、階段を駆け下りる。新入社員時代のように、一段飛ばしで一気に。汗だくの姿にびっくりしたのか、目を丸くしながら受付嬢がチェックのバンダナに包まれた弁当を差し出す。ひったくるように受け取った勇人は外へと飛び出していった。


――奥様からお弁当を預かっております。お昼休みまでこちらでお持ちしてますね。


 そんな言葉を聞いたときは心臓が飛び出しそうだった。昨日から、朝までの状況を考えて、それは全く想定外の事だったからだ。そして亜衣を幼稚園に送った後に弁当を作ってくれて、わざわざ会社まで届けに着て来れば美咲が急に愛おしくなった。

 何でそんなにお前は優しいんだよ。俺はあんなにヒドイ事を言ったのに。弁当を抱えながら勇人は周囲を見回す。見渡す限り美咲の姿はどこにもない。でも今きたばかりならそう遠くまでは行ってないはずだ。

 勇人は駅の方向へと走っていった。昔みたいに、がむしゃらに。

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