第3話 落とされた物
いち早く家に入りたかった勇人は、施錠されたドアに出鼻を挫かれた。もう既に時計は七時を回っている。キッチンの電気は点いているから中にはいるはずだ。
まさか締めだされた? 早く会って話をしたい、と思っていた気持ちがぐらつく。幾らなんでもそこまでの事は自分はしでかしていないだろう。
いや、待て。勝手な判断で気持ちを先走らせるのは危険だ。心を落ち着かせ、呼び鈴を押す。しかし反応がない。もう一度押す。やはり反応がない。という事は、電気をつけっぱなしで外出していると言うことか。ほっと胸を撫で下ろし、鍵を開ける。
玄関にはいつものようにピンクのゴムまりが落ちていた。気がはやっていたせいか、今日はスルーしてリビングのドアを開けると亜衣のおもちゃが転がっていた。ただ、そこに響いているはずの母子の言い合いが聞こえない。
シチューの匂いが充満しているから、ちょっと買い物にでも行っているだけなのだろう。十分もしないうちに戻ってくるはずだ。しかし、ほんのひとときでも今の勇人はじっと落ち着いてはいられなそうだった。
気を紛らわそうと、おもちゃを片付けようとするが、立ちすくむ。
――余り、亜衣の事甘やかさないで。
冷やかな美咲の声が蘇る。そういえば、そもそもの発端は俺が亜衣を甘やかして、片付けをさせなかったことじゃないか。もし、今ここで片付けてしまったら後で片付けさせようと思ったのに、と冷やかに言い放たれる気がした。
とりあえずビールでも飲みながら待とうと、キッチンへと向かおうとした時、勇人は亜衣のおもちゃの他に、ダイニングテーブルの下に落とされているものに気付いた。
それは美咲の携帯電話だった。よく見てみると、他に口紅やカード入れや、更にはのど飴まで落ちている。その先にバッグが落ちていたから、バッグごとテーブルに置いていたものを落としてしまったのだろう。それにしてはテーブルの外側ではなく、内側に押し込まれるような形で落ちていることに若干の不自然さを感じたが、椅子が引かれているからきっと背もたれで跳ね返るなりして、結果この状態になったのだろう。
それにしたって、これでは娘のことをとやかくいえないじゃないか。呆れながら落し物に手を伸ばす。いや、勝手に中身をいじくったら怒られるだろうか。女性の心というのは複雑だからな。かといって落としっぱなしなのもいかがなものだろうか。
少々迷った挙句、勇人は拾い上げることに決めた。とっとと拾い上げて、中身をつめておいて置けば、ずっと置いたままの状態と同じことだ。……多分。
勇人はまずバッグを拾い上げ、続けて落ちているものをバッグに詰めていく……前に、ほんの少しだけ、好奇心が芽生えた。
あいつはバッグに何を入れているのだろう。実は俺の写真とか入っていたりして。いつか漫画で見た、夢のような展開をふと思い出した事が勇人の「よからぬ心」に拍車をかける。避けられると解っているのに、逆効果になるようなことをしようとするとは、なんて馬鹿なのだろう。後悔するのはいつだって、やってしまった後だ。ほんの少しバッグを開いて見えてしまったものに勇人は息を呑む。
パステルピンクのいかにも女らしいバッグの中に、まるで似つかわしくない黒の男物のハンカチが入っていた。
よせばいいのに、良心のささやきを振り切ってハンカチを広げてみる。今時、入れている人間の方が珍しいが所有者を特定できるものは何もない。だが、男物だというのは確実だ。整髪料の香りが鼻につくからだ。
少なくとも美咲のものじゃない。俺のものでもない。今日は義父母に会うと言っていたから義父のものかと思ったがそうでもない。いつだか会食した時に、俺は香水とかぷんぷんさせるのが嫌いなんだ、とかなり力説していたのを良く覚えている。以降、使っている整髪料を止め、無香料のヘアワックスに移行したくらいだ。義兄は新幹線で五時間かかる場所に住んでいる。顔を合わせるのは大型連休や、盆と正月くらいのものだ。
じゃあ、これは誰のものなんだ。そして、一つの考えが頭角を現そうとしていた。
急に態度を変えた美咲。そのきっかけがこのハンカチにあるとすれば。そしてこれが意味するところを考えれば、急に全てが繋がっていくような気がした。
美咲が男物のハンカチを持っていた。つまりは男物のハンカチを入手するような機会があった。男物のハンカチならば、所有者は男だ。美咲は男と会っていた。美咲は浮気をしている――?
まさか、と思う。しかし可能性がゼロだなんて誰が言えるだろう。ハンカチを持つ手が震えだす。一体これは何なんだ。昨日の夜までは「いつもの幸せ」がここにあったはずなのに。全てが嘘であるかのように「幸せ」がバラバラと落とされていくように勇人には感じた。余りの衝撃に現実を見据えられない。
そんな勇人を現実に戻したのは、
「何やってるの?」
目を瞠って、驚愕をあらわにしている美咲の声だった。
ママー、ビールどうするの? とキッチンカウンター越しに亜衣の声が聞こえたが、今の勇人は気に留める余裕もなかった。それは美咲も同じようだった。
ほんの少しの距離をどかどかと音を立てて歩み寄り、バッグとハンカチをひったくる美咲。
「勝手に人のバッグ覗くなんて泥棒と同じだよ。信じられない」
途端、勇人の中でぷつん、と何かがはじけた。止めろ、と良心が告げるが救いようもないくらい、負の気分が勝っていた。歯止めが利かない。
「自分の事は棚に上げて、泥棒扱いかよ」
「……え?」
心外だ、と言わんばかりに目を瞠る美咲。しかし、勇人の負の暴走は止まらない。
「そんなもの入れておいて、しらばっくれるなよ!」
そ、それは……何かを言い掛けた美咲を他所に、勇人は言葉を続ける。
「子育てだ大変だ、とか言っておきながら自分は呑気にデートかよ。これだから専業主婦は気楽だよな」
放っておけば、どんどんと負の言葉があふれてきそうだった。だけど疑われるようなことをする方が悪い。更には信じてきたもの全てに裏切られたと思っている勇人は流されるかのように、負の感情を爆発させていくことしかできない。余りの勇人の剣幕に美咲はただ呆然とするばかり。暴走する勇人を止めたのは意外な声だった。
「ママ……ビール……」
缶ビールの入ったコンビニの袋を抱えながら亜衣が両親を見上げている。見た事もない父親の姿を見てびっくりしたのか、いつもの元気いっぱいの笑顔が消えていた。かといって怯えるでもなく、ぱっちりした目を更に大きくして、呆然と見つめている。余りの出来事にどうしたらいいのかもわからないのだろう。
そんな亜衣に、表情らしい表情を取り戻したのは美咲だった。
「あっち行ってなさい、亜衣!」
もの凄い剣幕に明らかに怯えの表情を見せた亜衣。代わりに呆然となってしまったのは勇人だった。大きな声を出してしかりつけることはあっても、こんなにヒステリックになっている美咲を見た事がなかったからだ。
その美咲といえば、憎たらしいといわんばかりの形相で亜衣を睨みつけている。しかし、幸か不幸か、負けん気の強い亜衣はおそるおそるであるものの、口を開く。
「あのね、ビールぬるくなっちゃ……」
「あっち行ってなさいって言ってるでしょ!」
亜衣の言葉を最後まで聞くこともなく、再び美咲は怒鳴りつける。流石の亜衣も重なる怒声には耐えられなくなったのだろう、あっという間に表情を歪ませ、わんわんと大声で泣き出した。
すかさぐ亜衣を抱き上げ、頭をなでてやる。ごめんな、こわかっただろう。声をかけてやると、火のついたような泣き声は止んだものの、ひっくひっくとすすり泣きは続く。
なだめ続けながら、顔を上げた勇人は目に映った美咲の姿に目を瞠った。絶対零度の視線。正にそんな表現がぴったりな冷やかな表情だった。
ほんの少し気圧されていたが、やがて落ち着き、そして怒りが満ちてきた。
「お前……子供怖がらせておいて何だよ、その全然悪びれてませんって顔は!」
悪びれてないどころか、それが当然だ、と言わんばかりに構えている美咲ははっきりとこう告げた。
「だったら妻が何にも言わないのに、勝手に誤解した挙句に浮気しているって決め付けたのになんではあ君は悪びれた顔をしてないの?」
亜衣を叱り付けたのとは真逆のささやくような声。しかし、決して細くはなく、むしろ鋭利な刃物のようなするどさを勇人は感じていた。
「道で拾っただけとか、そう思ってくれないの? それとも私は浮気しているような、いい加減な妻にしか見えてないの? そんな訳ないじゃない。私亜衣の面倒や家事で……毎日じゃないけどパートもあって、そんな暇なんてないもの。はあ君みたいに異性と接触する機会だって、殆どないんだよ!」
堰を切ったかのように、美咲は感情を爆発させる。勇人は何も口を挟めない。
「私は何も悪くないのに……亜衣が片付けないのが悪いのに! 幼稚園の先生も、お父さんも、お母さんも、私が甘やかしてるからじゃないかって……だから私ちゃんと注意してるのに……はあ君にも甘やかさないでって言っているのに。何で私ばっかりが悪いの?」
美咲の訴えは、最早勇人個人に向けられたものではなかった。
ゴメン、俺が悪かった。そんな言葉も今の美咲には言ったところで何の効果もない気がした。
やり場のない気持ちを埋めるかのように、勇人は腕の中でいつの間にか寝てしまった亜衣を抱き直す。その様子を見て、涙目になっている美咲は信じられない一言を口にした。
「そんなに亜衣が可愛いなら亜衣をおよめさんにしちゃえばいいじゃない!」
はあ? 何を馬鹿なことを言っているんだ。思っている事が口に出ない。
目に映る美咲はまっすぐに厳しい表情で勇人を見つめている。これは冗談を言っている目ではない。お互いに言葉が見つからず、しばらく沈黙が続いた。
「……知らない!」
つんざくほどの声で美咲は叫び、リビングから出て行った。
勇人はその背中を追うこともせず、視線を宙に泳がせることしか出来なかった。
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