第2話 理想の上司、そしてパパ
煮え切らない気分は会社に行っても消えなかった。
大口の仕事がなくて良かった、と思う。勿論プライベートを仕事に持ち込むつもりはないし、対処法はわきまえているつもりだが火種はないに越したことはない。
見た目的には何ら変わらずデスクに向かう勇人の視界の端にどうぞ、との声とともにティーカップが置かれるのが見える。視線を上げたそこには班の部下、中山(なかやま)が立っていた。いつも通りにしているつもりだったが、表情に出てしまっていたのか、目を合わせるなり中山は小柄な体を更に縮こませ、明らかに怯えてますという風に表情を強張らせている。
しかし何もそこまでびくびくしなくてもいいじゃないか。呆れ混じりの溜息を吐くと、中山はまたびくり、と肩を震わせ、すみませんと頭を下げる。
何でこんな挙動不審で奥手過ぎる人間が採用されているんだ? 会長の孫で完全なコネなのは解りきっているけれども、やはり理解に苦しむ。常日頃思っていることだが、もやもやしている感情を抱えている勇人はより強く感じてしまう。
「あ……あの、カモミールティーはお嫌いでしたでしょうか? 高村(たかむら)主任」
班の他の部下には何故か好印象であるらしい天然ぶりが今の勇人にはやたらと癇に障った。
「そうじゃないだろう。君はお茶汲み要員なんかじゃないんだ。頼んだ書類はどうした? 今日の午後までなら待ってやるって約束だっただろう?」
はっとした表情をして、中山はすみません今すぐ持ってきます、と頭を下げる。どうやらもう出来上がっているらしい。それならば出社してすぐ持ってくればいいのに。勇人は思わず舌打ちする。
部下たちは聞こえているのかいないのか、それぞれの作業に没頭していたが、たった一人、新入社員の片桐(かたぎり)だけが勇人のことを忌々しげに見つめていた。大学生気分の抜けない入社まもない頃に髪を染めるんじゃない、だらしなく伸ばすんじゃない、とか社会人としての自覚を持てとか、色々言ったせいで随分嫌われてしまっているようだ。理解している勇人には無言の攻撃も、たいした効果を発揮していなかった。むしろ社会人としての最低限の礼儀を教えたのだから恨まれる覚えはない。上司として当然の仕事でもある。
永遠に続きそうだった片桐の睨みは、中山により満面の笑みへと変わる。
「ありがとうございます! いやあ、中山先輩にお茶淹れて貰える俺は果報者ですよ」
「え……っ? お、大げさだよ、片桐君……」
でれでれと鼻の下を伸ばしている片桐と、頬を紅く染めて俯く中山。微笑ましい光景にも勇人は和まない。むしろイライラをつのらせるばかりだった。
すぐ、と言ったくせに何をまだ呑気にお茶を配っているんだ、と文句が口から出かけたが何とか宥めた。班の全員にお茶を配る時間を惜しむほど切迫している訳ではない。まだ午前中だ。
ややあってお茶を配り終えた中山が書類を手に戻ってきた。念入りに内容に不備がないかチェックする。流石に入社三年目だけあってミスはほぼしなくなったものの、入社当時のひどさをしっているだけに油断は禁物だ。
三回見直したが間違いは見当たらなかった。完璧な出来といっていい。しかし、内容と相反するかのように勇人は眉根を寄せた。
「この程度の書類に助っ人を頼むのは関心しないな」
勇人の厳しい物言いに、あっ、と表情を強張らせる中山。
解らないとでも思ったのだろうか。確かに一人一人の筆跡を把握しきってはいない勇人であったが、書類の文字は明らかに前半と後半で異なっていた。一人でやってない事は一目瞭然である。
「あ……あの、それは」
「一日でやれと言った訳じゃないだろう? 四日与えておいて、しかも土日を挟んでいるんだ。他の仕事抱えていたって十分に終わる量だろう? 新入社員だったらまだしも三年目でそんな姿勢じゃ困るよ」
矢継ぎ早の勇人の説教に中山は珍しく何かを言いたそうに見つめ返した。しかしやがて諦めたのかいつものように俯いてしまった。
正しいことを言っているのに何故こちらがいけないことをしている気分にならないければならないのだろう。勇人が深く溜息を吐くと、びくりと中山が肩を震わせた。
「今回の事はもういい。戻ってくれ」
静かに席へと戻る中山。蒼白な表情の中山を隣の片桐がドンマイっすよ先輩! とか一生懸命なぐさめ、勇人は強く睨まれた。
* * *
懸念していた弁当はいつも通り美味しそうだった。
さあ、食うかと箸を伸ばしかけたとき、課長に肩を叩かれた。
「高村くん、ちょっといいかね」
度の強い眼鏡のせいで大きく見える双眸が相手に圧迫感を与える。しかし基本は穏やかな壮齢の課長は、どこか意味ありげな微笑を携えている。
「ここでは出来ない話でしょうか?」
「そうだね。何、時間は取らせないよ」
おいでおいで、と手招きをする課長に逆らう理由があるはずもなく、弁当の蓋をしめて勇人は指示にしたがった。
* * *
「高村くん。君ちょっと部下に対して厳しすぎやしないかね」
喫煙所まで連れて来られて早々、勇人に浴びせかけられたのはそんな台詞だった。しかし勇人は動じない。いずれ言われると予想はしていたからだ。
「確かに色々と口うるさいかもしれないのは否定しません。ですが、間違っていることを指摘するのは当然の事ではないのでしょうか」
「うんうん、それは間違いないねえ。でもね……」
煙草をくわえ、ぷは、と煙を吐いてから課長はおもむろに口を開いた。
「君、余り部下の事見てないでしょ」
穏やかな口調で紡がれる言葉はしかし、勇人には厳しく重いものとして届いた。
「……そんなことは」
「そお? さっきだって中山ちゃんが何か言いかけたのに何も聞かなかったじゃないの」
確かに中山は何を言いたそうにしていた。けれどすぐに諦めた。それは言い訳が見つからなかったから。図星だったから。そうじゃないのか。
「堂々と言えない理由なんて、きっと大したことじゃありません。中山は甘えすぎです」
そうかい。そっけなく言い、課長は殆ど吸っていない煙草を灰皿に押し付ける。
「君の教育方針にとやかく言うつもりはないけどね。世の中マニュアル通りにいかないことだってあるんだからね。こちらの命令に要求通りの答えを寸分違わず返してくれるのはプログラミングくらいのものなんだから。これは頭に入れておいてよね」
呆然としている勇人を他所に、背中を向けながらじゃあね、と手を振る課長。喫煙所のドアを開きかけながら、ぼそりと課長は呟いた。
「君、昔はもっと無鉄砲でがむしゃらだったじゃないの」
がつん、と頭を殴られるようだ、とはこういう状況を言うのだろうか。
勇人は人生三十三年目にして、そんな事を思っていた。
* * *
帰り道。勇人は早く帰りたい気持ちと、帰りづらい気持ちの両方を抱えていた。陰鬱な気持ちは、電車の揺れる振動という慣れすぎて生活の一部になっていることですら、わずらわしいものに変えてしまう。
一体今日は何という日なのだろう。主任という役目を与えられてから半年近く。一生懸命やって来たつもりだった。より良くするために敢えて甘えを捨てて、指導に励んできたと思っていた。それで上手く言っていると信じていた。
それが全部裏目に出ているとでも言うのか? さすがは高村主任ですね、と言われていたのはすべてヨイショで、片桐の態度が全てを物語っていたとでも言うのか?
勇人は頭をかきむしり、思わず唸り声を漏らした。視界の端で子供が指さし、母親らしき若い女性が手を下ろさせるのが映ったがどうでも良かった。
アナウンスが最寄の駅を告げ、能動的に降りる。ラッシュでせわしない駅中とは裏腹に勇人の足取りは重い。
会社で嫌な気持ちを抱えたのは今に始まった事ではない。そんな時、いつも迎えてくれたのは美咲の優しい笑顔と、亜衣の元気いっぱいの姿だった。何も言わずとも、それだけで気持ちが晴れた。しかし、その美咲は今、勇人に対してよそよそしい。行き場は、確実に心から迎えてくれる亜衣だけだ。
しかし人の多い駅を離れ、徐々に人影が減ってくるにしたがって気分が落ち着いてきたのか、別の考えが勇人の頭の中に芽生えてきていた。
――君、余り部下の事見てないでしょ。
昼間の課長の言葉を思い出す。一見うまくいっていると思っていたけれど、何も言わないだけで不満を持っているかも知れない部下たち。もしかしたら美咲も同じだったのではないだろうか。育児の疲れが日々溜まっていて、あの時臨界点を突破してしまったのではないだろうか。
ならばそう言ってくれればいいのに。いや、そう思うのは自分の勝手だ。勇人は首を振る。美咲は優しい。仕事疲れの自分に余計なものを背負わせてはならないと思ったのではないだろうか。
では自分はこれから美咲の負担をより減らすために何をすれば良いだろう。勇人は考える。食器を洗う、とかそんな事で良いのだろうか。しかし自分がいないときの事はどうにもならないが。
そこまで考えた所でああそうか、と勇人は呟きながら認識を改めた。そういえば亜衣が幼稚園で何をした、家で何してた、ということは美咲が全部話してくれていた。だけど美咲が何をしているか、つまりはどの程度のことをこなしているのか聞いたことはなかったかも知れない。
思った途端に勇人の足取りが速くなった。早く亜衣の顔を見たいのも勿論だが、早く美咲と話がしたくなった。言わないから聞かない、じゃない。言える様に聞くのも大事なのだろう。きっと課長はそういう事を伝えたかったに違いない。だから今日はちゃんと話をしよう。
自然と勇人は駆け足になっていた。ちゃんと話を聞けば、色々とアドバイスも出来るに違いない。残り少ない帰路を勇人は全力で走った。
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