パパのおよめさん
月島瑠奈
第1話 おいてけぼりのゴムまり
会社から帰って来た勇人(はやと)を出迎えたのはピンクのゴムまりだった。
リビングから玄関目掛けてゴムまりを発進させる。それが、一人娘亜衣(あい)のブームだ。ひっきりなしに転がしまくるものだから、洗面所やトイレから出てくる時に何度か転びそうになった。そんな妻の愚痴から得た情報を勇人は実感していた。
やれやれ、と呟きながら落ちているゴムまりを拾いあげる。くっきりとついている指の跡に遊びの夢中さが見てとれる。自然と勇人は顔をほころばせた。
先日TVから流れていた芸能人のボーリング大会。亜衣は食い入るように画面をみて、すごいねーと大はしゃぎしていた。きっとその興奮が頭に残っていて真似しているのだろう。
親が意図して与えずとも自分なりに工夫して遊べるようになった。そんな成長ぶりが何よりも嬉しい。その反面困っている事もひとつ。勇人はなんともなしに溜息を吐く。
夢中になる遊びも、飽きる時間はやってくる。次なる楽しみに移るのも自然の流れなのだろう。問題なのは、亜衣は何でもほったらかしで次に行ってしまうという事だ。例えば玄関に置いてけぼりにされたこのゴムまりのように。
しかし、可愛い一人娘のレベルはこんなものではない。これは序章に過ぎないのだ。
廊下の突き当たり、リビングから何となく聞こえてくる言い合いに、より深く溜息をついた勇人は無造作に革靴を脱ぎ捨て、リビングへと歩を進めた。
* * *
「亜衣ちゃん! もうご飯なんだから、いい加減おもちゃを片付けなさい!」
「やだもん! ごはんのあとも遊ぶから!」
「いっつも、そう言ってご飯の後もお片付けしないでしょ!」
「うるさい、ママのおこりんぼ!」
リビングのドアを開けた先にはいつもの光景が待っていた。母娘の言い合いに口を挟める訳がなく、黙って見つめている勇人を最初に見つけたのは亜衣だった。
「パパ、おかえりなさーい!」
はちきれんばかりの笑みを振りまいて、駆けて来る愛娘を両手広げて抱き留める勇人。一方でまだお説教は終わってないのよ、と言わんばかりに不機嫌そうにしている妻、美咲(みさき)が目に映る。
お片付けをしない娘と、注意するママ。当然のしつけなのだが、子の味方をしてしまいたくなるのはどうしてなのだろう。勇人は(美咲に言わせればでれでれしちゃって気色悪いほどの)笑顔で亜衣をだっこする。
「ちゃんといい子にしてたかなー、亜衣ちゃん」
どうみたっていい子にしてないでしょ! と言わんばかりの美咲の険しい目線を、目配せでなだめる勇人。そのやりとり(といっても亜衣の目線は勇人にしか行ってないが)を亜衣は一瞬きょとん、と首をかしげてみせたが、すぐにぱっと笑顔に戻る。
「うん、おかたづけはしてないけどようちえんでもいいこにしてたよ!」
自慢気に元気に応える亜衣。しかし娘よ。お前確信犯か。他は出来てるからお片付けくらい出来なくても怒らないで、と言わんばかり。五歳の幼稚園児が意図してるはずもないのだが、直感でそんなテクを身に付けているとするならば、凄いことだ。
そんなどうでもいい想像が勇人の頭の中を駆け巡ったが、諦めたのか夕食の準備を再開している妻の背中から妙な殺気を感じた気がしたので、考えるのを止め、亜衣を下ろした。
「えー、もう終わりー?」
つまらなそうな声に後ろ髪引かれつつも、着替えなくてはならないので断腸の思いで振り切ろうとする勇人。しかし敵(?)は上手だった。
スーツの裾を掴みながら「ねえパパ」と見上げてくる亜衣。百八十ちょっとの高身長の勇人からはより小さく、可愛く目に映る。
「パパあいちゃんのこと、すき?」
何を突然。だが答えは決まりきっている。
「うん、好きだよ」
「そっかあ、あいちゃんもパパのことすきー!」
でもね。言い置いて、この日一番のめちゃくちゃ可愛い笑顔(勇人目線)で亜衣は言った。
「いっしょにおかたづけしてくれたらもっとすき!」
それは反則が過ぎるというものだ、娘よ。
甘やかしすぎてはいけない。理解しても甘やかしたくなるのが男親としての性なのだろうか。それともただ単に自分が親バカ過ぎるだけなのか。ほんの数秒の間で葛藤し、
「お食事の後でね」
と勇人が応えてしまったのは当然の流れといえばそうであった。
「わぁい、パパだいすき!」
「亜衣ちゃん! パパお仕事で疲れてるんだから我侭いわないの!」
調理しながらもしっかりと父子の会話を聞いていたらしい美咲の怒声がキッチンから聞こえる。
「パパはしてくれるっていったもん。約束したもん。ねー、パパ」
「そうだね。ママはおこりんぼだねー」
話す声の大きさは変わらないのだが、敢えて無視することを決め込んだのか、美咲からは何も返ってこなかった。
「パパ、あいちゃんとけっこんすればよかったのに。あいちゃんがおよめさんになったらおこりんぼさんしないよ」
いつもと何ら変わりない光景だった。おかたづけをしない娘を母親がしかり、怒られるのにうんざりした娘は父親に取り入り、父親は娘をフォローする。それでも、総合的には平凡で幸せな日々。だから、
「じゃあ、ママがいなくなったら亜衣ちゃんにおよめさんになってもらおうかなー」
そう勇人が口にしたのも、戯れ程度で何の意図もない発言だった。
だから、キッチンから響く冷蔵庫を締める音がいつもより乱暴だった事に勇人は気付かなかった。
* * *
「綺麗にお片付け出来ましたー!」
「できましたぁー!」
ほとんど片付けたの俺なんだけど。心の中で突っ込む勇人の目に映る亜衣はやたらと満足気だ。「片付けろ!」というミッションの達成感に満ちているような得意気な笑顔だ。重ねて説明すれば、片付けの大半をこなしたのは勇人である。
片付ける、とは言っても「おもちゃばこ」と書かれた段ボール箱に散らかったおもちゃを入れていくだけ。多少変な積み方をしたとしてもキャリーオーバーになったりしない程度の余裕はあるのだが、この単純作業が亜衣にとっては苦痛でたまらないらしい。親の溜息を他所に、亜衣はお気に入りのアニメ「プリティココナッツ」の主題歌を口ずさんでいる。
からから音をたてる頭のボンボリをみて勇人は思う。まだまだはしゃぎたい盛りの子供だ、髪の毛を結ぶ間じっとしている方がぽいぽい無造作におもちゃを箱にいれるよりかよっぽど苦痛になりそうなものなのに。
おしゃれ心を大事にする所は五歳でも女の子、という事なのだろうか。そういえば昔大学のサークルでバリバリにアイライン入れている女子が、私部屋片付けられないんだよねーといつも言っていて、謙遜かと思ったら本当に足の踏み場もない部屋で度肝を抜かれた事があったっけ。思い出しつつも、今思い出す必要のなかったことだったので、勇人は考えるのをやめた。
「じゃあ、あいちゃん、おふろできれいきれいしてきまーす!」
「はーい、いってらっしゃい」
楽しそうにお風呂場へと向かう亜衣の背中を見送りながら、いつものように首を傾げる勇人。
お片付けが嫌いな娘は、お風呂には一人でちゃんと入れるのだ。お気に入りのキリンのパジャマを持ち、脱衣所のタンスからパンツとタオルを出す。ちゃんとスポンジで体も洗えるし、シャンプーハットを使って(失敗もたまにするが)上手に髪も洗う。
ただ、後片付けが嫌いなので蓋は開けっ放し、スポンジは泡だらけ、タオルと脱いだ下着は脱衣所に散らかし放題だが。
さてもう一本ビールを開けようか。冷蔵庫を覗いていると、皿洗いをしながら溜息混じりに、パパといい置いてから美咲が呟く。
「余り、亜衣のこと甘やかさないでって言ってるじゃない」
缶ビールを取り出し、後ろ手で冷蔵庫のドアを閉めながらははは、と勇人は苦笑を漏らす。
「まあまあ、片付けできないくらいでそう目くじらたてるなよ」
勇人の言葉に美咲は答えない。ざあざあ流れる水と、かちゃかちゃ鳴る食器の音に遮られて聞こえないのだろうか。元よりこの手の言い合いで口論になることは滅多にない。
それ以前に亜衣が産まれてからは、夫婦らしい会話も余り交わしてない気がするが、かと言って険悪になっている訳でもない。
会社では主任、というより責任ある立場になった事で仕事中心の生活になり、正直家庭を考える時間は少なくなっているのは否めない。だが、家に帰ればちゃんと娘の相手はしている。その分美咲の負担は減っていると思っているし、美咲は呆れ顔しつつもちょっと愚痴を漏らすだけで何でもない様子なので、総合的には「平凡な家庭」である我が家の現状を心の中では理解しているのだろう。
だから、根本的には心配しなければならないことは何もない。勇人はそう信じて疑うことはなかった。否、疑う行為自体思いつくことはなかった。勇人にとっては「仕事のことを理解してくれ、家をまもってくれる聞き分けの良い妻」という美咲の姿が定着していたからだ。
ほんのすこし、数歩の距離のソファに辿り着くまで待ちきれず、缶ビールのプルタブを上げる。
ちょっと、ちゃんとソファに座って飲んでよ、行儀の悪い。
いつもの言葉の代わりに勇人の耳に届いたのは、水の止まる音だった。蛇口を閉める音が強かった事に、勇人は気付かない。洗い物が終わったのだろう。単純にそう思った勇人が振り返ってみると、シンクにはまだ洗いかけの食器が何枚か残されていた。泡をかぶったままの食器に目線を落としたまま、美咲は振り返らずに、ぼそりと呟いた。
「いいわよね。あなたはただ可愛がればいいんだから」
膨れっ面の愚痴ではなく、冷やかな不満の言葉。明らかに違う美咲の態度に勇人は意表を突かれ、言葉を紡ぐことが出来なかった。
そんな隼人を他所に、追求を拒むが如くの勢いで美咲は蛇口を全開にした。
* * *
結局美咲の真意を問うことは出来ず、朝を迎えた。
「おはよう、パパ!」
幼稚園の制服姿で亜衣が駆け寄って来る。ここまではいつもの朝の光景だった。ただ次にくる美咲の「おはよう」の声は背中を向けたままだった。
ごっはん、ごっはん! と嬉々としている亜衣に手を引かれ、テーブルにつく。和食派の食卓には焼き魚(今日は鮭の切り身だ)、卵焼き、ほうれん草のおひたしが並んでいる。家政科を出ている美咲の作る料理は絶品だ。だが、これみよがしと炊飯ジャーの前に置かれている勇人の青のラインの入ったご飯茶碗(因みに美咲は赤、亜衣はプリティココナッツのイラスト入りだ)がそのおいしさを半減させていた。
「おい、味噌汁は?」
「今、温める」
無視はされないがそっけない返事のおかげで更に半減。
一体何なんだ? 飯をよそいながら勇人は眉根を寄せる。
昨夜の美咲の呟きからして育児で悩んでいる事はほぼ間違いないだろう。だが、何で急に? 大変なのは昨日、今日に始まった事じゃないじゃないか。
結婚してから八年、亜衣が産まれてからだってもう五年だ。それが何故今になってこんな態度に? 何かきっかけがあるはずだ。余程の何かが。勇人は必死にここ数日の思い当たる節を探す。だが見つけられない。
煮え切らない気持ちを抱え、茶碗の飯に目線を落とした勇人であったが、亜衣のパパ? という声に我に返る。ごまかすかように無造作に箸を掴み、飯を口に運ぶ。亜衣はきょとんとした顔で父親を見ていたが、やがてもぐもぐと食事を再開した。箸を使って上手に口に運んでいるが、親に似て箸の持ち方は下手だ。突き刺さないだけ、マシか。
はい、と温めた味噌汁を置きつつ、美咲が食卓の向かい側に座る。真意を聞くなら今だ。思ったが、どこかいつもより冷めた表情の美咲を前にして、勇人は昨晩と同様に言葉を紡げなかった。
「亜衣ちゃん。今日はおじいちゃんとおばあちゃんも幼稚園に来るんだから、お洋服汚しちゃだめよ」
「はーい」
母子の会話も余り耳に入らず、勇人は食事に徹することにした。
だし汁が染み出る美咲の卵焼きがいつもよりぱさぱさしていたように感じたのは、今の自分の気分のせいなのだろうか。勇人にはわからなかった。
食事を終え、勇人がテーブルから立つと、同時に美咲も立ち上がりキッチンへと向かう。玄関で靴を履き終えるか、否かの絶妙なタイミングで美咲が弁当を差し出す。
「はい、気をつけてね」
これもいつもと同じなのに、その表情と声のトーンが明らかに違う。もやもやと曖昧だった感情はここに来て、苛立ちへと変わった。
本当に一体何なんだ。俺に不満があるなら、ちゃんと言え。中途半端な態度を取られるくらいだったらいっその事、完全に無視された方がせいせいする。
そんな言葉が出るはずも無く、弁当を受け取るだけで勇人は家を後にした。
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