ありがとうまでの半世紀 (現代)
――本当にアンタは愚図なんだから。
お母さんが笑わなくなったのはいつからだっただろう。
――知らないわ。「おかあさん」ですって。変な子。
どうして、嘘つくの?その男の人は誰なの?
――お前なんか生まなければ良かった。
僕が居なくなったら、お母さんは昔のように笑ってくれるのかな……?
* * *
水平線が朝焼けに染められ、きらきらとした光が穏やかに揺れていた。僕は絶景を目に焼き付けながら断崖の際に立っていた。まさに僕は自らの命を散らそうとしていた。
意を決し、一歩足を前に出す。これで、全てから開放される。そう、信じて。
「……止めとけば、そんな事」
背後から、聞えた声に思わず反応する。振り返る。立っていたのは自分と同じ年頃の少女だ。まるで気配も感じさせず、いつのまにかそこにいた。
問いただす事はしなかった。必要無かったからだ。
「止めたって無駄だからな。僕にはもう生きる価値なんてないんだ!」
必死の叫び。しかし、眼前の少女は動じる様子もなく、何故かため息をついて言った。
「別にアンタの事情なんてどうでも良いの。私は単に絶好のロケーションを台無しにして欲しくないだけだから」
「……え」
思わず、口をあんぐりとあける。それを見て少女はやれやれと両手の手のひらを返すポーズをとった。
「あら。必死に訴えるかと思えば……やっぱ本心は死にたくないんじゃん」
潮騒の音が激しく響く。しばらくして我に返った僕は、キッと少女を睨み付けた。相手は動じない。
「う……うるさいっ! 多少は躊躇うのが当たり前だろ!」
「……アタシの台詞にあからさまにがっかりしたくせに……」
「! ……大体お前何なんだよ! 見ず知らずの女に僕の気持ちが解ってたまるか!」
「知らないわよ。そんなこと、ただ私はここから見える景色が好きなだけ。アンタが死んだらここ、少年A君が自殺した場所って変なレッテルついちゃうじゃないの」
僕は視線を地に向け、少女に背を向けた。
「ちょっと、飛び降りないでよ」
飛び降りる代わりに座り込む。
「……そうだよ……。どうせ、僕は死ぬ度胸も無いどうしようもない弱虫だよ……。これ以上お母さんに迷惑掛けたくないのに……」
「だから、死のうと思ったの?」
何も答えず、小さく頭を縦に振った。
「ふ~ん、でも死んだ所で「これ以上迷惑掛けない」のは無理だと思うけど?」
「……何でだよ」
俯いたままの格好で僕は呟く。少女は一つ深く息を吐き捨て、答える。
「捜索願いとか、葬式代とか、諸々」
「……君って変な人だね」
顔を上げて傍らに立っている少女と視線を合わせる。
「そうかもね」
* * *
お母さんは、お父さんが死んでから僕を養うために夜の仕事を始めた。出来ちゃった結婚で駆け落ちだったお母さんには頼る人が居なかったから。当時五歳位だった僕にはその仕事がどの位辛いものだったかは理解できるはずもなかった。覚えているのは、毎日暗い部屋で寂しく夜を過ごした事と、段々お母さんの笑顔が消えていった事だけだった。
そして、あの日。具合が悪くて、学校を休んで家に居たら、仕事を終えたお母さんが帰ってきた。隣に見知らぬ男を連れて。
『お母さん……その人だれ?』
『おい、どういう事だよ。お前独身だって』
『知らないわ、お母さんですって、変な子』
しばらく玄関先でもめる声が聞えた後、お母さんだけが中に入ってきた。
『どうして、嘘吐くの? あの男の人は誰なの?』
僕はお母さんに問いかけた。お母さんは、それまで見せなかった位怖い顔で僕を睨みつけた後、言ったんだ。
『お前なんか、生まなければ良かった。……お前なんか、死んじゃえばいいのよ!』
……すべての希望が音を立てて崩れていくのが聞えた気がした。
* * *
まだ知って間もない少女に、自分の過去を晒け出した。何故かこの少女には聞いて欲しいと思った。誰かに、聞いて欲しかった。ずっと。
「……お母さんが大好きだったのね」
「うん」
「もう必要とされてないって解っちゃったから耐え切れなくなった訳だ」
「……」
相変わらず穏やかな潮騒の音が響いている。日は既に昇りきって穏やかな陽光が僕達を照らしている。
「嫌われたまま、終わっちゃって……それでいいの?」
「嫌だよ」
「だったら、生きなきゃ。そしたらその内……何か善処されるかもしれないわよ」
「勝手なこと言うなよ。じゃあ、それで今のままだったらどうする気だよ」
憤る僕を目の前にして少女は考え込み、やがてにっこりと笑いながら言った。
「じゃあ、その時は私が貴方を好きになってあげる」
思わず噴出した。少女は口を尖らせながら「なによぉ」とかすねている。死にたいと言う気持ちはもうどうでもよくなっていた。
「そう言えば、君本当に何者?」
燦々と輝く陽光を背に少女は言った。
「知りたければ、精一杯生きてください」と。
* * *
あれから、五十年。僕は彼女と再会した。
一面真っ白な空間の中、当時と何ら変わらない容貌を携え彼女は立っていた。ただ、少し違ったのは、背中に純白の羽があった事だった。
「お久しぶり、お迎えにあがりました天使さんでぇす♪」
無邪気に彼女はいった。その態度に驚愕の衝撃は消え、僕は思わず噴出してしまった。
「現代人にしてはちょっと早かったんじゃないの? ここに来るの」
「でも、病死だから、いいだろ?」
あの時から、色々な事があった。僕は高校卒業とともに家を出た。就職は決まってて、自分ひとりで生活できるようになったから。それまでにお母さんの笑顔を見る事はなかったけど。家を出るときにお母さんに言った「あの人と幸せにね」って。その時はそれ以上会話はなかった。何ヶ月かしてから、小包が届くようになった。見知らぬ人物からだったけど、良く知っている字だった。それだけで、もういいや、って思った。
「あの時からずっと聞きたかったんだけどさ」
「なあに?」
「何故僕を助けてくれたんだい?」
僕の問いに何故か彼女は言いにくそうなそぶりを見せてから、話し出した。
「あ~、丁度あの時さ、何故か死亡数多くてさ、天界の職員もいっぱいいっぱいだったのよね、で、それを少しでも緩和するためにその年の自殺予定者の中で、歴史的に生かしてもなんら支障のない人物を説得して回ってたって訳で……つまりお仕事だったのよね」
……幻滅しちゃった? と彼女は遠慮がちに応えた。
「いや、君が居なかったら、さびしく短い一生を終えるだけだったから、感謝してるよ」
好きな女性と出会えて、子供も出来た。裕福ではなかったけれど、とりわけ特徴もなく、傍目から見れば平凡な人生だったけど。僕にとっては最高の幸せを手に入れる事ができた。それは皆、目の前の天使のおかげだから。僕は、あの時言えなかった言葉を、五十年分の気持ちを込めて彼女に言った。
「ありがとう」と。
天使なんて言うと聞えは良いけれど、実際の役目は生涯を全うした人間の霊を天国まで連れて行くこと。つまりは魂の運び屋を延々と繰り返すだけなのだ。
正直言うと、退屈極まりないお仕事。でも、こういう風にお礼なんかいわれちゃうと、この仕事も悪くないわね、と天使の少女は思った。
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