※以下、執筆日不明

とりあえず、ゲンジツ。(現代)

 景気付けに、寿司屋のランチに行こうと思ったのが失敗だった、と「その時」は思った。


*      *      *


「すみません、アガリ下さい」

「何アガリって? お茶の種類?」

「寿司屋では、お茶の事アガリって言うんだよ」

「へー、そうなんだあ。アンタ、物知りだね」

「じゃあさ。しょうゆの事はなんつーか知ってるか?」

「え? わかんない。なーに?」

「ムラサキ」

「すごーい!」


*      *      *


 ブランド物を纏ったマダム達の談笑が飛び交う中、若いカップルの会話はそこだけマイクをつけたかのように、やたらに鮮明に耳に届く。特に良く響く「カノジョ」のソプラノ声。はっきり言って耳障りだ。得意気に知識をひけらかす知ったかぶり男と、たいしたこと無い知識におバカちゃん丸出しで、大げさに驚く女。

 ばっかじゃないの。イライラしながら、海鮮丼をかっ込む。お口に入れた途端にとろける産地直送のウニの味も、威勢よく弾けるイクラちゃんの感触も、半減だ。海鮮丼ランチ。千八百円。半分。イコール九百円分の損。どうしてくれよう。バカップルめ。


*      *      *


 ……と思っていたりした時に限って、レジの順番が前後したりする。これは、運命の悪戯か。神は慈悲深いのではなかったか。

 真の答えは単純明快。ただの偶然だ。全世界約六十億の人間を支配している神が、こんな平凡な女子大生を嫌がらせるが為に、偉大なるお力を振るうはずもなかろうに。無論、私が感じた「ヤな感じ」は、実は「ごくありふれた寿司屋の日常の風景」という事は理解している。でも、今は理解したくなんてなかった。

「一万円しか、ないけどいいっすか?」

 一万円「も」あるんだったら、ホテルのランチバイキングでも行きやがれ。


*      *      *


 吹き付ける木枯らしが、心まで冷やしていくようだ。別に体を冷やされているのは私だけではないのに。室内に入っても、冷たさがしばらく残るのは、ただの冷え性だ。神様も、寿司屋のカップルも、木枯らしも、私に害をなさんとしている訳じゃない事くらい理解している。眼中にすらあるはずはない。人類皆兄妹なんて言うけれど、無関係の私は、彼らにとってはただの社会の一部だ。

 ましてや、私とアイツが別れた話なんて、知る由もない。私とアイツの問題であって、他の誰かに責任がある訳ではない。アイツにも責任があるけど、私にだって責任がある。そう。だからこれは、アイツと……そして、私が悪いんだ。去来する気持ちは当然の報い、耐えねばならない試練。なのに、それを緩和する為に、ただの幸せなカップルを卑下している。『最低』って指差されても、反論できない。何か急に恥ずかしくなって、用もないのに近くのトイレに駆け込んだ。


*      *      *


 手を洗って、バッグからハンカチを取り出そうとした時に、チカチカと光るものに気付く。携帯のメール着信、全五件+着信1件。開いた先には、見慣れた名前が並んでいる。また、恥ずかしくなった。穴があったら入りたい。

 アイツと別れた昨日の夜。しばらく呆然とした後、悲しさが襲ってきて。でも、一晩泣き明かしたら、今度はイライラしてきちゃって。わだかまりを解消したいが為に、親友にメールを打った。それはもう、被害妄想バリバリの八つ当たりともいえる、迷惑極まりない内容の。

『何ー!? いつのまに、そんな展開になってた訳? 詳細求む』

『とりあえず、気をしっかり持て! ガッコに来たらじっくり話聞くから。いいか、はやまるな!』

『今家? 二コマは、一応代返しておいたよー。』

『……おーい、生きてますかー。応答せよ。応答せよ』

『コラ! 午後の授業は、ゼミだから代返聞かないぞ! お前をフッタ男の為に、評定下げる気か! 幾ら、センセーが寛容でも失恋は欠席の理由にはならないぞ!』

 上記のメールの、三分後。着信アリ。

 襲う自己嫌悪を、取っ払いながら、学校行きのバス停へと走り出した。とりあえず、現実を認める為に。


END

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