【最終章・野良犬の遺書】『遠吠えさえできない野良犬の結末』
おれは、『ホテル・レミング』の部屋から出た。
喜瀬川の呼ぶ声が聴こえたが、振りかえらなかった。
走って走って、見なれた街は他人のようで、でも走った。
足は、あかりの元へと向いていた。無意識に、だ。
踏切に差し掛かった。
――カンカンカンカン。
明滅するランプ。赤い灯はおれの血の色だ。
目の前を切り裂くように黄色い電車が、通り過ぎていく。
線路の上を滑るように走る電車が、たまならく羨ましい。
踏切のバーが開いたが、その瞬間、また踏切の警告音がした。
――カンカンカン。
駆け足で渡る。そして、道路に出ると信号の前で、立ち止まる。
車は、おれをミンチにする速度で走り去る。水で死ぬのは難しいけれど、車にひかれたら、楽に死ねるのだろうか。
いや、バカ言うな。さっきおれは、死を拒んだじゃないか。怖かったんじゃないか。
――カンカンカン。カンカンカン。
背後の音は、メフィストフェレスの呼び声だ。好奇の喘ぎだ。
信号機の上で社長が、おれを手招きしている。
死ぬことで、おれは報われるのか?
車に吸い込まれる感覚だ。
みなさんご自慢の車が、走る、走る。
背後では、電車が走る。おれを挟む。おれをミンチにする速度で、走る。
「――!」
後ろから、声がする。今度は、メフィストフェレスの声なんかじゃない。
喜瀬川が、下着姿で、踏切の向こうにいる。どうして、そんな姿なんだろうと思ったが、実際は普通にトレンチコートを羽織っていた。意識が混濁する。
――カンカンカン。
何を言っているのは解らなかった。
死んじゃいや。一緒にいてよ。愛してるわ。
そう言ってくれれば、おれはどうするだろう。幼稚な恋心だ。笑えてくる。
喜瀬川は目を見張り、何かを叫んだ。
回りの音が消え、はっきりと聞こえた。喜瀬川は、こう言ったのだ。
――あたしだって、死にたくなんかないわよ。
と。
その瞳は煌き、悲痛な表情と激しくアンバランスで、ただただ美しい。
電車が走り、残像が喜瀬川に重なって、ぼんやりと。電車がいなくなると彼女は腕を大きく振って、こっちにこいと言う。
「あんた、いい加減にしなさいよ。あたしのこと好きなんだったら、あんたから言えばいいじゃない。言ってよ。言いなさいよ。いまさら、あたしからは何も言えない」
「……」
その腕に抱かれたい。優しく、ミルクのにおいの中で、母親に抱かれるように。
おれを天国まで連れていってくれ。
喜瀬川は頭を乱暴に掻き、じれったそうな顔をした。
「……わかったわよ!」
喜瀬川は靴を脱いだ。
そして、彼女の――いや、彼女とおれの『遺書』を取り出すと。
それを破り捨て、放り投げた。破れた紙片は、電車が通過する風で取り返しようもなく散っていった。
その瞬間、おれは死ぬことすら許されなくなったのだ。
おれは、何を言えばいい?
わからない。
わからないけど。
「おれと、生きてくれ」
生まれて初めて、心の底から、振り絞った。
だけどそれは、踏切の音にかき消されるくらい、弱々しく、軽薄だった。
なにもかもがもう、遅かったのだ。
せめて、お前にもう少し早く会えたら。
なにか変っていただろうか?
――いや。考えるのはよそう。
おれはどこで生きていたって、自分しか愛せない。
そして生きる場所は、あかりの腕の中だけしか残されていないのだろう。今喜瀬川を抱きしめても、それは寄り道でしかない。
ポケットの中で携帯が鳴り続ける。
踏切が開いて、喜瀬川が走ってきた。
おれは膝をついて、両手を地につけて、天高く、吠えてみたくなった。去勢されたおれには、細い遠吠えしかできないだろう。
空はむかつくくらい、ピンク色。
金色の鳩がおれのかわりに「ワォン」と鳴いた。
今のおれはまだ、人間なのだろうか。
〈了〉
野良犬の独り言~妹に飼われてました~ 肯界隈 @k3956ui
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