【最終章・野良犬の遺書】『野良犬の結婚』
意識を失っていたようだ。鋭い頭痛で目覚める。
部屋は酷い惨状だった。
血が一気に凍りつくような感覚。
頭がぐちゃぐちゃとして、髄までキンと冷えるにも関わらず、粘ついた汗をかいている。
風呂場のガラスが割れていて、破片が散らばっている。ソファは横転していて、カーテンが破れていた。
起きて、すべてを悟った。
おれは酒を飲むと、どうして暴れるのか。
自らを破滅させるための、自己プログラムなのだろうか。
わからない。
「……くそ、頭いてぇ」
呻く。言っても仕方のないこと。
頭は鈍く、未だにとろみのついた未来の世界にいるようで。
どうして誰もいないんだ。喜瀬川は、どうした。
もう、だめだ。
――警察に、電話しよう。酒で暴れてしまったと、白状しよう。
おれはもう一度、病院にぶちこまれればいい。
そしてまた、あかりに飼われるのだ。
おれは、野放しにしてはいけない理性のない獣でしかないのだから。
部屋の電話を取ったが、指が震えて言うことをきかなかった。
警察の番号は何番?
「東京03」はいるのか?
頭がおかしくなっている。
「あんた、何してんの!」
喜瀬川が部屋に入ってきた。血相を変えて、電話機を手ではらった。おれはいきり立って、彼女を睨みつけた。
「なんだよ、やめてくれ」
「あんた、自分で自分の首しめようとしてるの、わかんないの?」
「警察に電話する。おれはもう、酒で頭がぶっ壊れてるんだよ」
喜瀬川を責めようとしない自分が不思議だった。
お前が飲ませたからこうなったんじゃないかと、言えばいいだろう?
「何を言っているのかわからないわ」
「説明しなくたってわかるだろ」
荒れた部屋を見回し、喉が潰れそうな声で言った。
喜瀬川は、何でもない様子――更地を眺めながら、元々そこにどんな店が建っていたか、思い出話でもするように――話し始めた。
「これは、あたしがやったのよ。ストレス発散」
「嘘をつかないでくれ」
喜瀬川は、今までで一番の軽蔑の感情を見せた。
「嘘じゃないわ。あんた、偉そうなのよ。なに、まるで自分を怪物みたいに。あたしからみたら、あんたなんてよわっちい野良犬よ」
「……」
彼女の真意などわからない。慰めではないのだろう。
それでも、おれは喜瀬川の前で泣きたかった。胸に抱かれたかった。もう一度告白したかった。
酒におぼれて、全てを失ったんだと。
酒にすべてを押し付けて、取り返せそうだった未来だって投げ捨てたんだ。
「あんたなんか、怖いわけないでしょう。馬鹿にしないで。肉屋の娘よ、あたし。いざとなったら、捌いて鍋にして喰ってやるわ。肉が少なくて、まずそうだけれど」
「……」
「困ったら黙るの、やめてくれる? 誰もがあんたの想像通り動くとばかり思ったら、大間違いよ。あんたって、自分以外の人間をバカだと思ってるんでしょう」
「……」
「ここまで言われてまだだんまり? あんたって、いやなやつだわ」
……。
この女だったら、おれを救ってくれるのだろうか。
あかりの顔がちらついた。幸せそうに、おれの頭を撫でているところを思い出した。おれとずっと一緒にいたいと笑っていた。
携帯が鳴った。なった。なった。鳴り続けた。
あかりからのメールだった。
――遅いけど、大丈夫?
――早く帰ってきてね。
――寂しいよ。
――お願い、にいちゃん。
――あかり、にいちゃんだいすき。
――フレデリックといい子で待ってるから。早く一緒にテレビ見ようよ。
――いなくならないでね。だいすきだから。
メールが、届き続けた。
携帯が鳴り続けた。喜瀬川はそれを怪訝そうに見て、それから、さらに酒を飲む。彼女の瞳は濁っていて、おれを映していなかった。
「喜瀬川」
「なによ」
おれは、膝をついていた。みにくい涙が、頬を伝った。
「助けてくれ」
叫び。ひび割れて、かさついている。彼女は相変わらず微笑みはしなかったが、いつもみたいにおれを中傷することもしなかった。
そして、言った。
「いいわよ」
彼女は懐から封筒を取り出した。
『遺書』だ。
彼女が折りたたまれた用紙を開く。婚姻届、と記されていた。
心中を望んだ男に、名前を書かせるつもりだと喜瀬川が言っていた。
それが、彼女にとっての遺書なのだと。
……それを、おれに?
すでに、喜瀬川の名前と血判が押されていた。それが、彼女のいう「はじめての血」なのかはわからない。
おれが呆然と『遺書』を見つめいていると、喜瀬川は笑った。
今までで、一番美しい微笑。
「かわりに、死んで見せてよ。あたしと一緒に生きていきたいなら」
「!」
これは矛盾なんかじゃない。彼女の言うことは、正しい。
おれの中で、赤黒い衝動が刃をのぞかせ、背中を押した。息は乱れ、呼吸はどんどん浅くなった。
ぼんやりとする。涙の水面が静かに揺れて、喜瀬川に出会った日、あの日を、思い出す。
無目的で、飯を食うために、原始的な路上の犬としての幸せな日々を思い出す。
「冷やかしなら、別にかまわないわ。あんたは、その程度だったの」
「……おれは、お前と死ねる」
おれは親指の先を強く嚙む。血が滲む。その指先で、もう誰も呼ばないから忘れかけていたおれの名前を書いた。
そして血判を押した瞬間、喜瀬川の遺書は、おれの遺書にもなったのだ。
喜瀬川は『遺書』を手に取ると。
そっと、おれの唇を優しく嚙んだ。
ずっと連れ添った、愛する人にじゃれあうように。
「愛してあげるわ、野良犬」
携帯は鳴り続けた。
「じゃあ死になさい。ここで溺れ死んで。しみったれた、海で」
喜瀬川は、湯をなみなみと張ったバスタブを見つめた。
「……」
おれは無言で歩きだし、浴槽を覗き込む。乳白色な水面。ライトで水面が光り、ピンクや水色に、色を変える。
「あたしも、すぐ行くわ」
水面が、とぷんと揺れる。
歪んで、間抜けに口を広げたおれが映る。
その男は、ただ、死にたくないと喚いていた。
狂おしいほどの静謐。音はないのに、この世界はたまらなくやかましい。
「……」
喜瀬川は、何もしない。おれはおれの意思で死ななくてはいけない。
水にそっと顔をつける。水面が、生死をはっきりと隔てていてた。
水から上が生きている世界で、その下が死んだ世界。
おれは、腕の力を静かに抜き、水面に――死に、顔を濡らした。
ぬるま湯のはずなのに、冷たくて、刺々しい。
死の世界は、おれを拒んでいる。今ならまだ引き返せると忠告する。
おれはバスタブの縁を強く握り、呼吸を求めて暴れる頭(もう、この壊れた頭はおれのものではない)を、自ら必死に水に押し戻した。
ひたすら、顔をあげず、こらえた。
……。
どれくらいの時間がたったのだろう。息が苦しくなると、心臓がきゅうと鳴り、危険信号を送る。
シグナルを無視した。無視を続けた。人間の機構を、無視したのだ。
――ダメだ。
鼻の奥がツンと痛む。バスタブに顎をぶつけて、おれは、何度も生を拒む。
体中の血管が、膨らむ。膨らむ。
「……もう、わかったわよ」
喜瀬川の声だ。ヒステリックに、響く。
「わかったわよ。わかったって! いいから顔をあげなさい!」
苦しい。
「聞こえないの?」
苦しい。
「ねえってば! いいから、あげなさい!」
死にたくない。
「――!」
何もかもを諦めて、みじめでもいいから生きていたい。
気付いたらおれは、水面から、顔をあげていた。
シャツの裾が濡れ、まとわりつくのが不快だ。
さっきまで死にそうだったのに、こんな些細なことが気になるのか。
どうして、そうなんだ?
簡単だ。
おれは、死ななくて安心しているんだ。
「……」
おれの肩を掴んだ喜瀬川。
青ざめていたが、こちらを心配するでもなく、ただ悲壮な顔をしていた。
そこには、恋愛感情はおろか、ささやかな好意もないように思えた。
こちらを見つめるまなざしは、どこまでも冷たい。温度がなくて、爬虫類めいていた。それに反比例して、喜瀬川に救いを求める気持ちはさらに加速した。
「は、はは」
おれは訳もわからず笑う。水に顔を付けただけでこんなに世界が変わるものかと、誰かにこぼしたくなったが、それはただおれの問題で、自分自身にしかそれはわからないはずだった。
人間にとって木が倒れた音が「バタン」であるのと、同じ。
おれは一瞬、死を覗いた。
安易に顔を突っ込んだ罪だ。
おれは、生きている人間からも、死んでいる人間からも受け入れられなくなった。
成仏さえ、まともにさえてもらえない。
産業廃棄物としてのいきもの。
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