【最終章・野良犬の遺書】『野良犬以下』

 一時間ほどかけて『ヤマアラシ』にたどり着く。

 警察がバリケードを張り、輪を作っていた。

 その傍らにはボニ―がいた。彼女はおれの姿をみとめるなり、指をさした。

「……みんな、大丈夫なんですか?」

 尋ねると、ボニ―はおれの全身を見て、「どしたの、そのカッコ?」と不思議そうに言った。

 家を飛び出してから、自分があかりと揃いの可愛らしいチェックのパジャマに身を包んでいることに気付いた。

「服装は気にしないでください。それより、怪我人は?」

 ここで、『喜瀬川はどうしたんだ?』と直接訊けない自分が、もどかしくて仕方がない。

「いないって。エリカ様が、急に体調崩したらしくてさ。中止にしてここ閉めようとしてたら、勝手口から火が出て」

「あぁ」

「従業員も、みんな平気。最近見かけなかったけど、トラちゃん元気ぃ?」

「……ははははははははっはははははははははははっはは!」

「……トラちゃん、笑い方気キモ」

 笑いが止まらなかった。

 安心したのか。他人が……いや、喜瀬川が助かって、こうも安堵するのか。

「え、ちょっと」

 呆気にとられているボニ―を差し置いて、おれは走りだした。

 もしかしたら、ボニ―とはもう会わない方がいいかもしれない。おれは穢れているし、彼女はまだきれいだ。

 『ホテル・レミング』に向かった。

 随分と久々な気がする。

 そうでもないはずだけどな、おかしい。

 部屋には、喜瀬川がベッドで横たわっていた。

 なるほど、体調が悪いと言うのは本当のようで、重い瞼で、ねぶるようにおれを見つめた。病人がラブホテルのベッドで療養しているのは、奇妙なもんだ。

 ただ、マヨネーズだけは手放さずに持っている。

「……なによ、逃げたくせに。どのツラ提げて帰って来たの?」

 喜瀬川は不機嫌さを隠さずに言った。

「それより、『ヤマアラシ』の話聞いたか」

「聞いたも何も、さっき電話受けたわ。今は社長と雄太が、警察と話してるみたい」

 珍しくつけられたテレビでは、ライブハウスが燃える様子が報道されていた。

 犯人はすぐに捕まったようだ。

 安心こそしたが、不安なくらいのあっけなさが不気味でもある。

「よくもまあ、これだけ燃えるものだわ」

 喜瀬川は呆けた声で言った。

「暢気だな」

 おれは。

 喜瀬川に、何を求めているんだろう。

 いま、喜瀬川に気持ちを伝えないと……。

 おれは、あかりの元で言葉のない生き物に成り下がる。吠えることもできない、野良犬以下の存在だ。

「ま、ね。これ、付き合いなさいよ」

 彼女はそう言って、ベッドの下に手を入れた。喜瀬川は、おれに安そうな日本酒の瓶を差し出した。暗い悪趣味な照明で妖しく光る。

「……悪いけど、酒はダメなんだよ」

「なによ、付き合いの悪い。あたしはね、体調悪いときは酒飲んで治すのよ」

「本当に無理なんだ」

 喜瀬川はひどくつまらなさそうに「なによ、泥酔してる間に犯されたことでもあるわけ? あんたホモだもんね」と嘲るように言った。

 否定する気力もない。

「……実は」

 おれは、彼女に説明した。昔アルコール中毒に陥っていたこと。それで人生を駄目にしたこと。

 どうして今、こんな話をしようと思ったのか。懺悔だろうか。

「ふん、悲劇のヒーローってわけね」

 喜瀬川は、酒瓶に口を付けた。そして、豪快にラッパ飲みした。皮膚の薄い白い喉が、いやらしく動いた。

「いいから、飲みなさい。何があってもあたしが責任取るから」

「やめてくれよ。本当にもう……」

「飲みなさい」

 喜瀬川は、おれの言葉など何も価値がないと遮った。彼女の目つきが変わって、不思議と従わざるを得なくなった。

「早く」

 瓶を口に押し付けられる。

「間接キスとか思ってんの? 気持ち悪い」と、喜瀬川は口を歪めた。

 酒が流れ込んでくる。喉が熱い。灼ける。

 気持ちいい。

 最高。一口でぶっ飛ぶ。

 はは、おれは何をそこまで悩んでいたんだろう?



 ……で、それから?

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