【最終章・野良犬の遺書】『妹に飼われています』

 目を覚ますと、そこは懐かしい天井だった。

 だが同時に、ひどく他人のものめいて感じられた。

 ここは昔住んでいた部屋だ。

 おれが大学を出るまで過ごした家。

 人生を踏み外す前に住んでいた家。

 なに、ほんのつまらない豪邸。

 六畳一間で、壁が薄い。 

 実の母親と過ごしていた、マンションの一室だ。

 そうか、ここはまだ残っていたんだな。

 おれはベッドで、行儀よく眠っていた。

 本棚には、大学受験のために揃えた参考書が並んでいた。

 どれもこれも、脳の皺にまで叩きこんだつもりだったのに、頭から抜け落ちていた。

 おれの頭は、この十年でふやけて、萎んでしまった。

 外れたカーテンレールも、壁に張られた演劇のポスターも、そのままだ。

 あまりにそのままで、不気味だ。

 おれが、何年もの歳月から取り残されてしまったのか。

 たちの悪い冗談だって言ってくれ。

 おれは一体、何のために生きているんだろう?

 もう数分すると目覚ましが鳴り、大学へ目を擦りながら向かい、出席カードを貰い、また眠るのだろうか。

 バカバカしい妄想だ。

 布団に顔をうずめる。

 清潔なにおいがして、青ざめた肌みたいに白くて、バカみたいだった。夕方までたっぷり眠った後のような、奇妙な爽快感とうしろめたさ。

 スタンガンで眠ったのにな。

 傍らでは、床に膝を立てて座ったあかりが、上半身をベッドに預けて眠っていた。振り袖ではなく、チェックのパジャマ姿だ。でも眼帯はつけてるのな。

 はなちょうちんでも作ってそうな、平和で甘い眠り。妨げるのを躊躇うような眠りだ。

「むにゃむにゃ……まつたけゲットの術ぅ……」

 そう言って、掛け布団越しにおれの股間を撫でまわす。

 三流の下ネタ。

 お前、眠ってるんだよな?

 おれは嘆息して、ベッドから這い出ようとする。だがそれは叶わなかった。

「?」

 脚に、締めつけるような鈍い痛みが走る。おれは緩やかに絶望する。あかりは、淡い希望を満面の笑みで叩き壊してしまう。

「にいちゃん、おはおはおはおっは!!」

 あかりは、口の端からてらてらと輝く涎を流し、ハチミツみたいに甘ったるく微笑んだ。

 かつては、おれを尊敬していた義妹いもうと

 落ちぶれたおれを見下し、深く愛し、飼育をした義妹いもうと

 あかりは上体を折り、足元の布団をどける。そこには、ハードな革製の拘束具が足首に絡みついていた。

「おはよって言ってんじゃん」

 無言だったおれに、あかりは不服そうに言い、再び黒いものを押しつけた。

 ビリ。今度は、微弱な電流。せいぜい、針で爪の間を刺されたくらい。

 あかりは、無垢な笑みを浮かべた。

「ね、にいちゃん。あかりがおはようって言ったら、にいちゃんもおはようって言うのが、気持ちのいい人間関係の第一歩だよね? ね?」

「……おはよう」

「ちょっと、なんで喋るの?」

 びり。

 理不尽。

「おにいちゃん、やっぱりほっとけないっていうか? 大丈夫、あかりの再教育のはじまりはじまり~」

 もう、始まっている。

 絶望が始まっている。

 さて、ここから流れに身を委ね、美少女妹プロデュースの監禁生活を楽しむのも悪くはない(ここまできても、軽口が出るのが驚きだ)が、それはできなかった。

 少なくとも、今のおれには。

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