【最終章・野良犬の遺書】『世界滅びなかったね』

 それ以降も、手紙は届き続けた。そのうち、親愛のメッセージは、むきだしの悪意へと変わっていった。内容は、ある種の殺人予告のようなものだ。

 貴方と心中したい。そういった内容だった。

 そしていよいよ、悪意(恐ろしいことに、『好意』とも書きかえられる)は加速して、歯止めがきかなくなった。

 放火の予告がされたのだ。

 来年に行われるライブである『みんなで心中ナイト』の日、ライブハウス『ヤマアラシ』を放火すると。『炎に焼かれ、貴方と心中する』。そう書いてあった。

 あの結婚男の仕業と見て間違いなさそうだった。

 いよいよ、喜瀬川に提案せざるを得なくなった。

「次のライブは休止にした方がよさそうだな」

「あんでよ?」

 喜瀬川は怪訝そうに言った。そりゃあ、そうだな。

「……言いたかなかったけど、黙ってもいられないな」

 やむを得ず、犯人からの手紙を喜瀬川に渡した。その数は五十を超えていた。喜瀬川は手紙の一つを嘗めるように読み始めた。無表情だ。

「ふぅん」

「……後の方のを読んでみろ。なにかあってからじゃ遅い」

 喜瀬川は、侮蔑の表情を浮かべる。

「あんた、いくじなしね」

「おれのことを言っているんじゃない。何かあったらってのは、お前のことだ」

「上等じゃない。心中なんて。あたしに心酔する人間と、死ぬことができるなんて」

 こちらが言葉に詰まると、喜瀬川はふん、とつまらなさそうに息をついた。

「馬鹿ね、嘘よ。べらべらしゃべる癖に、冗談も通じないの?」

「?」

「こんなの脅しに決まってるじゃない。こいつの言うことを真に受けて中止になんかしたら、調子に乗るわ」

「構わないさ。警察に連絡しよう」

「嫌」

「どうしてだよ。あまのじゃくも大概にしてくれ」

「違うわ。あんたにはわからないのよ」

 喜瀬川は言った。瞳はどんよりと濁っていた。彼女はあの旅行以来、寝不足のような血走った目をしていることが多かった。声は張り詰めていた。

「あたしのことを必要としている人間がいて、あたしに熱狂している」

 彼女は、小さく舌なめずりする。おれは喜瀬川に、みるくの影を見た。

「その興奮を。その、悦びを」

「馬鹿言うな。死んじまったらなんにもならねぇよ」

 思わず声を荒らげた。彼女は疎ましそうに言う。

「なによ、他人事みたいに言うのね」

 喜瀬川は言った。

「この世界に引き込んだのは、あんたよ」

「……」

「あんた、野良犬のくせにわからないの?」

 喜瀬川の表情は、見たことのないくらい美しかった。美佐子さんと同じ、百合の香りがしたような気がした。

「興奮している、牝のにおいが」

 喜瀬川の口腔内の粘りすら、伝わってくるようだった。

 ……こいつ、狂ってやがる。


 大晦日になり、帰る場所もなく、オカムラの家に行った。

『ホテル・レミング』には、もういられなかった。喜瀬川と同じ屋根の下にいると、自分まで狂ってしまいそうだったのだ。

 オカムラは、おれが訪れるなり、「私って都合のいい女だね」と自嘲気味に笑い、家にあげてくれた。彼女は昔みたいにお節介を焼かなかった。口やかましくなにかを言われると思っていただけに拍子抜けした。

 自分から離れていったくせに、彼女の優しさが無関心に変わるのが恐ろしかった。

 今回の大晦日は、空っぽで呆気ない。時間は重く、ナメクジみたいに糸を引いてのぞのぞと過ぎていった。一秒が喉を通らない。隙間風がひどいオカムラの家で、毛玉が目立つ毛布をかぶり、昼も夜も区別なく眠った。昼間はオカムラがバイトで出ていて、一人でいた。外出する理由も、意味もわからなかった。ただ、眠れば眠るほど、死に近づく。畳と溶け合うように、眠った。帰宅したオカムラは、鍋を作った。おれは食事をするときだけ、口をきいた。白っぽい土鍋が柔らかくて優しい湯気を吹き、妙な安堵を与える。

「今日はねー、キムチ鍋だよ」

 蓋を開けると、優しい鍋の表情はどこへやら、中身はビビッドな赤。具材もすべて深紅。

「うわ、からそうだな」

「だめ?」

「辛いの苦手なんだよ。知ってるだろ」

「……そうだっけ。今から豆乳を入れてみる?」

「それだと、豆乳鍋だな」

「でも、キムチも入っているから。豆乳キムチ鍋」

「ま、食えりゃ何でもいいか」

 こんなつまらない会話に身を任せるのが、何よりも心地よかった。

 ずるずると、萎びた白菜を取り出して、口に含むと少し幸せだった。

 一体、何を悩んでいたんだろうと思う。嘘の壁を取り除いた世界を、白菜の皺に見いだした気がした。テレビでは、お茶を濁したようなお笑い番組が流れていた。

 この映像は、本当におれがいるこの世界と、同じ世界にあるのか。延長線上にあるのか。

 おれにも、巨大風船に怯える人生はありえたのか。

 わかんないわな。へらへらと笑いながらでも、病気に臥していても、平等に年は明ける。

 十二時を過ぎた。

 オカムラは、「世界滅びなかったね」と笑った。おれは「当たり前だろ」と短く言った。

 結局、鳩目ウロと社長は、何か関係があったのだろうか。

 今となっては、どうでもいいのだけれど。

 オカムラと顔を見合わせて、言葉少なに会話とも言えない、「寒いな」「毛布、洗わなきゃね」とだけ交わし、電気を消した。おれの身体は誰かを欲していたけど、同時に異様なほどの睡魔が襲い、結局オカムラの少し肉のついた腰を抱き、眠った。

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