【最終章・野良犬の遺書】『君と僕は結婚する』

 合宿から帰ると、生活は元通りのようで、全てが違っていた。

 年末に差し掛かった、ある日の夜。

 おれは社長を車に乗せ、走っていた。行き交う車には、無表情でからっぽな悪意を持った人間が座っていた。

 社長は言う。

「ぼくはね、麻雀が好きなんですが、どうも不得手なんですよ。下手の横好きってやつで。将棋やらチェスやらは得意ですがね。なかなかどうして、複雑です。どうしてだか分りますか?」

「……」

「おや、お好みじゃないですか、こういう話は」

 まったく、無駄話だ。おれには、聞きたいことが渋滞しているというのに。

 しばらくの沈黙の後に、話を切り出した。

「……みるくのことを訊いてもいいですか」

「えぇ、えぇ」

「おれはね、今でもあのことを夢だと思っているんです」

「あのこと、とは」

「説明したでしょう。美佐子さんとともに、未来に行ったこと」

「未来とは、難しいですな。人間は現在にしか生きられないが、考えようによっては常に未来に生きているともいえますわな」

 社長は、二酸化炭素同様の言葉を排出する。

 未来の世界。あの場には美佐子さんしか居合わせた人はおらず、彼女はもういない。もう、あの世界があったのか、確かめる術はない。でもたしかにおれは、あそこにいた。

「君が見た未来の世界は、真実のうちの一つですわ。夢でも幻でもない」

「みるくは、未来の世界で生きる目的を得た。そう言っていたんです」

「えぇ、えぇ。ぼくの提案を彼女はすんなりと飲み込んだんですわ。彼女に会ったなら、わかるでしょう? 彼女が、それを望んでいたことを」

 そうだ。彼女は誰でもない、自分の意思で「未来」というどん詰まりを選んだ。

「彼女は、この世界ではいつも不安そうで、縮こまっていたように思えますでしょ。でも、あの世界では、まるで水を得た魚だ。そうは思いませんかね?」

 社長は柔らかく微笑んだ。

「彼女はあれでいいと、そういうことですか?」

「えぇ、幸せでしょうな。彼女は、心の痛みももう感じないんですわ。世のため人のため生きていくことが、使命なのですから。幸せでなければ人間は生きていけない。君も幸せを掴むために生きているんじゃないのかね」

「……」

「ひっひっひ。若者は、大変ですな」

 人はいつだって夢を見て生きている。

 みるくは、幸せそうだった。それを妨げるのは、おれのエゴだろう。

 あれがよくないと思うのは、おれの世界の常識だろう。

 偉そうに説教垂れておいて、一番迷っているのはおれじゃないか。

 くそ。このジジイの考えがわからない。単に、楽しんでいるのだろうか。

 惑っている、若者たちを肴に。

 おれとしたことが、こんな薄っぺらな人情に振り回されるなんて。

 ……ちなみに、鳩目ウロのことは聞かなかった。話がややこしくなる。

 終わってくれたらどんなにいいかと思うが、世界はどうせ終わらないのだ。


 翌日、『ホテル・レミング』の郵便受けを探ると、何通かの封筒が入っていた。

 これは、最近届くようになった喜瀬川へのファンレターだ。封を切り、簡単に目を通し、そのうちの一通を畳んでポケットに入れた。

 そして残りを、部屋で退屈そうにパソコンのキーを叩いている喜瀬川に渡した。

「またきたのね。うしし」

 喜瀬川はそれを嬉しそうに眺め、一通一通を何度も読みかえしていた。毎日、五通ずつくらい、届く。内容はさっきのように、おれがまず目を通す。

 おかしなストーカーがいないとも限らないからだ。しかし、内容は思った以上に、ピュア、不気味なくらい、ピュアピュア。

 内容は、『次のライブ楽しみにしてます』だの、『エリカ様のおかげで毎日楽しいです』などなど。あの合宿の成果は、あいまいなファンを数名作っただけ。

 そう、思っていた。

 しかし数日前、ちょっとばかしクレイジーなやつがきやがった。

「君と僕は結婚する」

 原文ママ。それだけ。差出人の名前もない。

 シンプルだが、恐ろしい。

『結婚してください』でもなければ、『結婚しよう』でもない。

 この手紙の主からしたら、もう決定事項なのか?

 ……こりゃあ、さすがに見せられないよな。

 これを見せたら、喜瀬川はなんて言うかな。常人並みに、気味悪がるだろうか。こんなやつでも、愛してくれればそれでいいと言ってのけるか。

 反応は読めないな。

 おれがさっきポケットに突っこんだのは、このアホからの手紙だった。

「これで全部? もっとないの?」

 喜瀬川が飢えた子どものごとく尋ねる。おれは短く、「いや」と呟いた。彼女はこちらの挙動を少し怪しんだようだが、言及はしてこなかった。

「あんた、アレ買ってきなさい。羊羹。コンビニのレジの横の、買い占めて。キリキリ働け」

 喜瀬川は、偉そうに言った。

 ……なぁ、手紙の主よ。脈絡なくブリッジをかまし、魚のフライにマヨネーズ一本使って、レジ横の羊羹を買い占めろと命令する女と、そんなに結婚したいのか。

 違うか、「したい」んじゃなくて「する」んだもんな。決定事項なんだもんな。こりゃあ正気の沙汰じゃない。

「あぁ、馬車馬みたいに働けばいいんだろ」

「馬のにしちゃあ随分粗末なのね」

「見たこともないのによく言えるな」

「見なくたってわかるわよ。ちんけそうな顔してるわ」

 あぁ、最初もこんな話をしたような気がする。

「……あと、ちょっと。外を見てきてくれない?」

「見るって?」

「原付。最近ね、ヘルメットがなくなったり、逆に飲み物が提げてあったり。ストーカーでもいるんじゃない? ま、今までいなかったのがおかしいくらい、あたしは美しいわけだけど」

「自分でよく言うぜ」

「なに? あたしがきれいじゃないっての?」

「わーったよ。外、見てくりゃいいんだな」

 おれはコートを着込み、部屋を出た。出たところで、後ろから喜瀬川が一言。

「一応、気をつけなさいよ。あ、一応ね。一応」

 ……なんだよ、その温いツンとデレはよ。

 そのストーカーというのは、もしかしたらこの手紙を出してきているやつだろうか。

 いや、考え過ぎだ。こんなのただの悪戯さ。

 外で缶コーヒーを買い、建物の周りをコーヒーをちびちびやりながら二周。

 特に、不審なことはなかった。

 きっとストーカーだって、年末くらいはゆっくりしたいのさ。

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