【第8章・あばら骨から生まれ、増殖する】『ブタに捧ぐクリスマス』

 おれにとって、長い夜が開けた。朝の、七時過ぎ。

 クリスマスイブ。だから、なんだというのだ。

 合宿の最終日。雨が上がり、憎らしいほどの晴天だった。美佐子さんに呼び出されロビーに向かうと、社長が座っていた。おれに直接話したいことがあるのだという。彼にすぐにでもみるくの話を訊くか迷ったが、それは躊躇われた。

 少なくとも、今話すべきではない。

 社長は美佐子さんを見て驚くでもなく、「お前、死んだんじゃなかった?」とあっさりと言った。美佐子さんは笑い、「うん、死んだけどね」とこれまた淡白に言う。おれはロビーのソファでコーヒーをすすりながら、そんな奇妙な会話を聞いていた。

「どうかね。合宿は」

 社長はフロントから離れ、おれの隣に座った。「はい。みんな、喜瀬川に夢中になっています」と返事をした。実際の深度はわからないが、この二日間で、何かが変わったのは間違いない。

「そりゃ結構」

「ただ、二人ほど脱落しました」

「立派立派。今日で終わりだと聞いたが、最後まで頼みますよ」

 ――ゾクリ。悪寒がする。

「ぼーうや♪」

「うぐぁぁ!」

 美佐子さんが、おれの背後から近付いてきていたのだ。彼女は後ろからがおれの腕をとり、優しく微笑みかける。咄嗟に喉の奥から声にならない叫びをあげ、飛び退く。

 お化けは嫌いだ、生きている人間をなんとも思っちゃいない。

 美佐子さんはけらけらと笑いながら、再びこちらに触れようとした。社長はおれの慌てる様子を見て、不思議そうな顔をした。

「君はうちの孫がそんなにお嫌いですかな? なかなか、器量のいい子だと思うんですが」

 社長は少し驚いた後、力の抜けた声で言う。

「いえ、大変美しい、眉目秀麗なお嬢様ではあると思うんですが……」

「ふうむ。ではなぜ?」

「……お化けだからですよ」

「かっは! そうですかそうですか。いや、トラくんにもそんな弱点が」

「私はむしろ、ビビりまくってる坊やのイメージしかないけどねぇ」

 美佐子さんは、おれの頬を尖った指で二回突く。社長はふぅ、と浅く息をついた。

「いや、そうでもない。君は最近の若者には珍しい、肝の据わった、賢い青年だよ」

「……肝の据わった、ねぇ」

 美佐子さんは、こちらにじっとりとねぶる眼差しを向けた。おれは頭をぼりぼりと掻いた。

「あのですね。頭の痛い話なんですが、美佐子さんはこの建物が壊れるのを見たら、成仏するって言うんです。いっそ壊して、成仏でも何でもしてもらいたいもんですよ」

 社長は、それを聞くなり黙ってしまった。そりゃあそうだ、自分の保有するホテルを取り壊せと言われて、いい気持ちがするものか。急いでフォローを入れる。

「いえ、冗談ですよ、もちろん。どうせ今日で、帰るんですから」

 しかし社長は、興味深そうに頷くだけだ。

「……いえいえ。いいんじゃないですか。やってみましょう」

「はい?」

「こんな大きな建物が壊れるところなんて、そうそう見れるもんでもありませんわ」

「本当にやるのかい、おじい様」

 美佐子さんが好奇心いっぱいの声で社長に言った。社長はあっけらかんとした声で、「いいんでない。楽しければ」と言った。

「どうせなら、喜瀬川がやったことにしましょうか。凄味が出るでしょう」

 このジジイ、何を企んでやがる?


 ……さて。あまりにあっさりした話で恐縮だが、まぁ聞いてもらいたい。

 ホテルは、崩壊した。

 それも、「未来の力」という不確かなものによって。

 おれは夢でも見ていたんだろうか。壊すなんて一口で言っても、時間も手間も、尋常でないくらいかかるはずだったが、そんな心配は無用だったのだ。

 社長は「ちょっと待っててなさい」と言い残し、身をかがめ冷蔵庫に入ったかと思うと、当たり前のようにみるくを連れてきた。

 もちろん、未来から。馬鹿げた話だ。

 彼女はこの間の活き活きとした様子とは違い、おれが知っている、みるくだった。猫背で、瞳はどこかに迷っていた。別れを告げたつもりの少女を目の前に、言葉が見つからない。

 ここは未来じゃない。現実世界。


 昼過ぎ、ホテルの前。おれたちも、「ブタ」どもも従業員も、皆集まっている。みるくは誰とも口を利かず、社長に促されるままホテルの陰に隠れた。現実離れした衣装に、委縮した背中がアンバランスだった。

 建物の中から、慌てた調子で社長が飛び出してきて、「よし、だれもおらんかったぞ」と笑い、おれの傍らに来る。

「さ、括目して見よ」

 社長は呟く。

 喜瀬川がピンと指先を伸ばし、建物を指さす。皆、ごくりと唾を飲みながら見守っている。

「えーい」

 喜瀬川は、気の抜けた声で言った。そして、建物の陰では、みるくが小さな声で何か掛け声を放ち、光線を放っていた。いつか見た、『未来』という文字の光線。それがじわっと建物の壁に染み込んだかと思うと。

 ――――――。

 音はしなかった。

 おれの目には、ただ、建物が消滅したようにしか見えなかった。目の前にはだかる壁がなくなり、ウミネコが囁き合う、冬の荒れた海が広がった。僅かな水色の水たまりができた。その場にいる人間は皆息を飲み、誰もが声を出すのをためらった。喜瀬川は、一番表情の変化がなかった。眉をピクリと動かし、あとは歪な水たまりを眺め、含み笑いをした。

 それは、滅びることへの愉悦の楽しみ方を探っているようだった。

 なるほど、こいつ、本当にいかれてやがる。

 ……この建物が崩壊したときの話は、これだけ。話すに値しない、つまらない出来ごと。

 気付けば、おれの隣に、美佐子さんはもういなかった。

 消えてしまったのだろうか?

 別れも告げずに。

 最後に交わした言葉は何だったか。

 恐ろしい。もう、彼女の輪郭さえ思い出せない。おれが彼女を消してしまった。そんな気がして、罪悪感を抱く。

 が、恐ろしいことにその気持ちさえ、数分後には夢の出来事のように胡乱なものになってしまう。

 みるくは帰って行った。彼女と喜瀬川は、口をきこうとしなかった。

 そして二度と、みるくに会うことはなかった。

 社長は、この非現実な消失を、喜瀬川の「えーい」の一言によるものだと人々に信じさせるような、パフォーマンスを試みるつもりだったようだ。

 だが、それがよくなかった。あまりの非現実は、「奇跡」を越えてしまった。誰も、喜瀬川をすごいとは言わなかった。言葉少なに、妙に冷めた表情を浮かべ、そっと心の奥にしまいこんだ。あるいは、証明もできやしないのに、トリックだと言い張る人間も。

 おれは興醒めの空気を感じ、合宿を強制終了させた。いつかの、占いをしてやったババァを追いかえしたときみたいに。

 皆の喜瀬川への忠誠心は、間違いなく切れてしまった。だが、それでよかったのだ。

 深夜。おれたちは、帰りの車の中でクリスマスを迎えた。

 喜瀬川は、泥のように眠っていた。おれたちより先に出たバスに乗った「ブタ」どもはもう、東京に着いただろうか。

 メリークリスマス。全てのブタどもへ捧ぐ。


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