【第8章・あばら骨から生まれ、増殖する】『あんたにゃあたしはわからない』

「やめません?」

「やめないよぉ♪」

 おれが嫌そうに尋ねても、美佐子さんはあくまで明るくないがしろにするだけだった。

 彼女の悪戯な瞳は、おれの背中をつつき、そそのかした。

 ここは暇田の部屋の前。三階の一番端。美佐子さんは、暇田の部屋の隣の扉を開ける。

 隣の部屋は空き部屋で、家具もなくがらんどうだった。壁が薄いのか、隣の部屋からくぐもった声が聴こえてくる。

 美佐子さんは、おれにアレをやれと言うのだ。

 結婚式とかで遅れてやってきて、「その結婚ちょっと待った!」とご機嫌に突入→からの花嫁をお姫様だっこで攫っちゃって「FIN」ってな展開を。喜瀬川が暇田を口説いているところに突入して、「実はおれお前がすっきやねん」とのたまえと。考えただけでうすら寒く、脳味噌がぶるると震える。

 美佐子さんはおれにベランダに出るように言った。

「ほら、まずは様子を見てきな。カーテン越しでも男と女の営みくらい、はっきり映るだろう」

「いいですって。こんなのただのお邪魔虫ですよ」

「当たり前だろう、邪魔をしに行くんだから」

 美佐子さんはににんまりと唇を広げる。

「いい趣味じゃないですよ」

「よくないから面白いんだろう? 後ろめたいからこそ、蜜の味さ」

「……」

「なに、別に後ろめたいっつっても犯罪じゃあない」

「いや、部屋覗いたら犯罪ですよ」

「なんだい、じゃあまずは聞き耳を立てて御覧?」

「いやですって」

「ま、ま、そう言わずにさぁ」

 彼女はおれの耳の傍で、少し上ずった声で囁いた。じれったそうに美佐子さんは、「そういうなら、私がやろうじゃないか」と、壁に耳をそばだてる。

 彼女はいやらしく目を細め、むふふと笑う。

「あら、あらら」

「わざとらしい」

「あら、そんな体勢で……大胆な……くはは」

 彼女はおかしくてたまらないのか、ぷふと噴き出す。

「音だけで体勢がわかるってんですか」

 呆れて、美佐子さんを見つめる。おぉ、おれにもジト目が出来ました。

「わかるさ。私くらいになると」

 自信満々に言い放つ美佐子さん。

 何、いきなりことには及ばないだろうが、こう、ぽっと出のキャラとメインヒロイン様がいい感じーになっているのも、主人公様として癪だ。

 いや、そもそもおれが気にするようなことはないのだけれど、どうしてこう、気になるのかね。背中に、べったりとおかしな汗をかきはじめて、気の悪い。

 もう十二月だってのに。こんな言い訳がましいこと、考えたかないのに。

 おれは無言で、美佐子さんの横に並んだ。

「あら、坊やはふぬけなんだね。結局気になるんだ」

「別に」

 減らず口とわかりながら反論し、漆喰の壁に耳を近づけようとした。ひんやりとした冷気が耳たぶを撫でる。

 そして。

「―――!」

 壁越しに、くぐもった、甲高い叫び。耳なんかつけなくても、はっきりと聞こえる。

 喜瀬川?

 おれははじき出されるように、隣の暇田の部屋に向かった。理性で、何が起きているとか、そういう類のことを想像する前に、無意識に体が動いていた。

 美佐子さんは、ただ驚いたように、呆然と立ち尽くしていた。多分おれの急な行動に驚いたのだろうと思う。暇田の部屋のドアを強く叩き、ノブを捻った。美佐子さんが遅れてやってきて、鍵をおれに手渡した。

 たまらずドアを開ける。

 そこには――。組み伏せられている暇田の姿があった。喜瀬川が、暇田の上にまたがっていたのだ。二人はおれが現れたことに酷く驚いたようだ。暇田が抵抗して身体を起こすと、喜瀬川はベッドから転げ落ちた。暇田は涙をたっぷり浮かべておれに駆け寄り、「た、たすけて」とすがりついてきた。

 なんだよ、気持ち悪い。暇田はおれを盾にするように退いた。

「あ、あの女おかしいって。いきなり、一緒に死のうって! 俺は、ただ向こうが誘ってきたから、しようとしただけで……」

 聞かなくてもわかるさ。

 喜瀬川に誘惑されて、いざその気になったら心中を迫られたんだろ?

 しかし、さっきの叫び声はお前のか。女みたいな声を出すな。

「暇田さん? あたしたち、永遠の愛を……」

 のっそりと起き上った喜瀬川が、三日月型の笑顔を浮かべ、暇田を見つめる。目は血走っていた。暇田はそれを見るなりおれを突き飛ばし、廊下を裸足で駆けていった。

 さっきの涙は、なんだったんだろうか、まったく。

 美佐子さんはその姿を、クスクスと笑って、「死ぬことの、何がそんなに怖いんだろうね」と笑った。返す言葉がなかった。美佐子さんはおれの肩を叩き、「じゃあね、うまくやなさいな」と、艶笑を浮かべて去っていった。

 喜瀬川と二人、ポツンと取り残された。喜瀬川は、マスカットのような色の下着姿で、棒立ち状態だった。どう言っていいかわからず、ただ水色の光に照らされて光る、喜瀬川の美しい腰のくびれのラインや、小さな膝小僧に目を遣る。

 喜瀬川はこちらを見たまま、何も言おうとしない。おれは悩んだが、結局気さくな、何事もなかったかのような軽い調子で言う。

「よ、よぉ」

 しかし、喜瀬川は氷よりも冷たい息を吐くだけだった。

「なんつうか、残念、だったな」

 その言葉はふさわしくないとわかりながら、他に言いようがない。

「……あによ、ジロジロ見て」

 喜瀬川は特に身体を隠そうともせず、ドスの利いた低い声で言った。そして腰に手を当て、威圧的におれを睨んだ。

「なに? あたしの身体がそんなにみすぼらしい?」

「あ、いや……」

 そんなことはない。そんな言葉さえ、まともに出てこないかった。

 急いで目を逸らした。彼女は仰向けに寝転がったかと思うと、急にブリッジを始めた。出会った日と同じように。

 いや、出会った日と同じように、なんてロマンチックな言葉とは、あまりに不釣り合いだ。下着姿の女がブリッジをしている部屋では、愛もときめきも生まれないだろう。

「調べたわよ」

「ん?」

 喜瀬川は沈黙の後、脈絡なく言う。ブリッジをしたままで。

「ニンフォマニア。辞書で」

「……なんだっけか、それ」

 喜瀬川は「別に」と素っ気なく言った。

 そうか、わざわざ調べたのか。しかし、ありがとうと言うのもおかしいし、曖昧に微笑むだけにした。

「助けに来てくれたんでしょ。王子様気取りで。バカみたいに」

 彼女はブリッジ状態を崩さず、器用におれを見つめた。

「頼んでもいないのに、よくもまぁ」

 彼女はおれを喉元から舐め上げるように見て、それから、言った。

「……よくも邪魔したわね。せっかく、チャンスだったのに」

「犯罪を未然に防いだんだ」

 ブリッジをする彼女のあばら見つめ、イブはアダムのあばら骨から作られたのだという話を思い出した。あばら骨から生まれ、増えていく生殖ならば、この世界に愛情は生まれなかったのだろうか?(なにせ、おれたちの愛情は生殖のきっかけに過ぎないのだから)

 何かに結びつきそうで、無関係な話。

「じゃあ、なに?」

 彼女は責め立てる口調で言った。

「あんたがあたしと心中してくれんの?」

 彼女は、無垢だった。

 その言葉は、ムチャクチャを言っているようで、彼女の中では筋が通っているのだと思った。

 迷った挙句、苦笑いを浮かべ、「冗談言うなよ」と答えた。彼女はふっと気の抜けた顔をしてブリッジをやめた。そして、目の前に立った。

 ――バチン。

 頬が、熱い。

 喜瀬川にビンタされたのだと、彼女が腕を振り抜いてから気付いた。昨日喰らったのとは訳が違う、強烈な一撃。

 なかなかいいビンタじゃねーか。ちっと惚れちまうくらいのよ。

「あんたにゃあたしはわからない。あんたにゃあたしはわからない。もう一度言うわ。あんたにゃあたしはわからない」

 彼女は、震える声で、何度も唱えた。喜瀬川は、涙を目に浮かべていた。

「死ね。一人で野垂れ死ね、イヌ」

 喜瀬川は言い放つと、ドアを乱暴に閉めていった。おれは乱れたシーツを目の前に、ジンジンと痛む頬を抑え、何かに目覚めたような清々しささえ、覚えた。おれはこの頬の熱さを、恋愛の昂りと勘違いしているのかもしれない。

 さて、どうだかな。

 ……そういうえば、散々罵倒はされたけど「死ね」は初めてだな。

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