【第8章・あばら骨から生まれ、増殖する】『ラ「ヴ」』

 ……繰りかえしだ。

 この日は、ろうそくを見ることを就寝時間までくりかえした。食事は、昨日の半分の量。かぶの味噌汁や、刺身などを食べた。随分と腹が減るはずだ。

 傀儡。誰も、初日のように食事に文句も付けない。こうも、効果があるとは。

 おれは怖れていた。取りかえしのつかない事をしてしまったのではないかと、ときたま不安が頭を過るが、足を止めている場合ではない。

 今日三度目のろうそくの時間、夜の十二時を回ったところで、お開きにした。くたびれたのだろう、みな口を利こうともせず、背を丸めて、各々、部屋に戻っていく。

 喜瀬川は、ただ聖女のように微笑んだ。そして皆の背中に「おやすみ、ブタ」と、清らかな口から汚れた「ご褒美」を授けた。

「ねぇ」

 そしておれと喜瀬川は二人、薄暗いカラオケルームに残されていた。彼女はテーブル上に唐揚げやポテトなど匂いを嗅いでいるだけで腹が膨れそうな揚げ物の数々を並べ、むさぼっていた。この細い体のどこに入るのか。見ているだけで、爽快感と虚無感が襲った。

「なんだよ。明日も早いぞ」

 喜瀬川はマヨネーズをたっぷりかけたミルフィーユカツを頬張ったまま、マイクを握った。そして、口をもごもごさせながら訳のわからないことを言い出した。

「あたしこの合宿で、ラヴ・デスティニーしたわ」

 ……お前はすごいよ。シリアスなんてどこ吹く風だよな、まったく。

「ラブ? なんだって?」

 おれは聞きかえす。

「ヴ、よ。ヴ」

 彼女は下くちびるを噛みしめ、西洋かぶれの気取った英語の教員みたいなインチキな発音をした。とんかつの肉の破片が、飛び散った。

 彼女はおれにマイクを向け、言う。

「いたでしょう? 暇田って言う変な名前の」

 おれも覚えている。奇妙な偽名を使っている男だ。二十代半ばくらいで、中肉中背で、癖のある黒髪をしている。一重瞼だが、目は大きかった。

「あいつがどうかしたのか?」

 おれがマイクに向かって尋ねると、喜瀬川は魚のフライが覆われるほど、マヨネーズをかけながら言った。

「なんかね、ビビっときたのよ。あいつとなら死んでもいいかもしれないわ」

 彼女は冷静な声で言った。しかし、内容はいかれている。突拍子もない。一体、何を言っているんだ。バカバカしいと、それを一笑にふした。

「喜瀬川、お前は崇め奉られて、おかしくなっているんだ。おれたちは、インチキを働いているんであって、本当の崇拝の対象じゃないんだよ。仕事なんだ」

 彼女は、おれの言うことなど聞いてはいなかった。

「ここで死んだら、あたしは神さまよね?」

「死んで神さまって言われて何になるんだ」

 そうだ。たとえ、宇宙人に侵略されたって、笑って生きてさえいられれば。

「あんたには、わからないのよ。誰からも好かれずに生きていくのが、どれだけ惨めか」

 喜瀬川は、カラスのような瞳でおれを貫いた。おれは自分の中に芽生え始めている喜瀬川への得も言われぬ感情を、疎ましく感じた。

「のんびり彼氏探しにちょうどいいわ、なんて気楽だったけど、気持ちが変わったの」

「……」

「今日。今。暇田と話してくる。じゃあね」

 彼女はマヨネーズの容器を握り、それを啜った。まだ足りないのか。

 そして、軽く手を振って部屋を出て行った。おれは動けなかったし、引きとめることができなかった。だって、どうしようもない。おれに何の義理がある?

 喜瀬川がどうしようが、おれは元々ただの運転手だ。給料だけ貰ったらそれでいい。

 どうしてだか人恋しくなり、ロビーを訪れた。そこでは、帳簿になにかを記入している美佐子さんがいた。彼女はいつだって変わらず、疲れの色ひとつない。

 幽霊だから? バカな。

 喜瀬川が暇田の部屋を訪れるのだと言うことを、冗談と嘲笑交じりに話した。美佐子さんは帳簿から顔をあげようともせず「そりゃあ横恋慕ってもんだよ、坊や」と言った。

「坊やのかざしている義理だのどうのって論理は、下の毛も生え揃ってない子どものと同じさ」

「……」

 おれは拗ねたように黙りこくった。ガキ臭い反応しか取れない自分に、自ら驚いていた。

「大人ぶってるくせに、頑是のないお子ちゃまじゃないかい。うふふ」

 美佐子さんは帳簿を閉じ、妖しく笑いかけた。

「……うふふって?」

「女がうふふと笑ったときは、なにか企みがあるもんさ。なぁ、坊や?」

 女は解らない。美佐子さん、あんたもシリアスはお嫌いかい。

 おらぁ、こんな展開ついていけん。

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