【第8章・あばら骨から生まれ、増殖する】『愛する人の口内』

 現実世界に戻った。さっきまでのが夢であってくれたら、世界中の幸せを祈りながら眠ることだってできるだろう。

 ……おれは一体、何をそんなに怯えているのだろう?

 ただ、おぞましい光景に恐れをなしたわけではない。

 ――お兄ちゃん。

 頭の中に、あかりの声が響いた。


 美佐子さんは扉を閉めるまで口を利かなかったが、扉に鍵を閉めると、冗談めかしておれに尋ねる。

「いいのかい? もう、未来は?」

「……おれはね、オカルトが大嫌いなんですよ。それより」

「なんだい?」

「成仏、してないですね」

 結局からかわれていたのだ。開かずの間は、ただオカルト嫌いのおれをビビらす遊びでしかなかった。ただ、ここまでの結果は予想していなかっただろうけども。

「女を満足させたいなら、命がけでやりな」

 美佐子さんは言った。おれは、力なく閉口した。粘液まみれでよく言うぜ。

 その後、僅かだが部屋で眠った。本当に眠ったのか、ただ目を瞑っていたのかさえ、わからない。そして次に目覚めたときには、朝の十時過ぎだった。部屋の外には喜瀬川がいて、顔を見合わせた瞬間、こっぴどくしかられた。

 おれは、安堵の息をつく。さっき見たのは、きっと悪夢だったのだ。あれは夢だったんだ。胸の中で、その言葉を何度も反芻した。

「なぁ、喜瀬川」

 彼女は盗み見るように、神経質な眼差しを向けた。

「なによ。次のスケジュール、あんたがいないと進まないんだから早くしなさい」

 おれはその視線にもたじろがず、彼女に質問をする。

「お前は、未来ってどんな風だと思う?」

 彼女は虚をつかれたのか、毒気の抜かれたようなきょとんとした顔をした。

「そんな社長みたいなこと言わないでよ。気持ち悪いわね」

「いいから、答えてくれ」

「わかったわよ、気持ち悪いわね」

 彼女は狼狽し、宙を眺めて、「どこでもなんたら~、みたいなのじゃないの?」と言った。

 おれにとって、そのいい加減さは何よりありがたかった。

「……間違っちゃいないな」

 そうさ。タイムマシンの入口が引き出しではなく、扉だったということだけなのだ。

 二十二世紀は、きっと本当は希望に満ち溢れている。青いタヌキだって、いるさ。

 彼女は閑話休題と、おれをいつものように半眼で見つめた。

「十時半から、ろうそくの時間ね」

「お、プログラム頭に入ってるんだな」

 軽い調子で相槌を打つ。もやもやを、吹き飛ばしたかった。

「当然じゃない。あたし、女王様よ」

 彼女は口の端を釣り上げ、キツネのように笑った。

「……なんだよ、乗り気だな」

「あれだけちやほやされれば、悪い気はしないわ。心中の日も、近いわね」

 喜瀬川は冗談めかして言った。

「ろうそくっても、お前が想像してるのとは違うけどな」

 喜瀬川が想像しているのは、恐らく赤い低温ろうそくを背中に垂らしたりする、安易なSM。でも、ろうそくには様々な知恵が詰まっている。

 本当は、ブレインウオッシュどころじゃない。むしろ自分が、頭の中身を全て洗い流して欲しいくらいだった。

 

 昨日と同じ、カラオケルーム。「ブタ」は、全員そろっていた。

 テーブルを廊下に出して片づけ、小さな御膳を人数分並べる。一人一人をその目の前に座らせて、正座させた。言葉少なに言葉を交わす人々。だが、昨日に比べると、凪のように静かな空間だ。おれはマイクを握り締めた。言葉が、喉からするすると這い出して来る。

「奴隷の皆さま、瞑想の時間です。エリカ様の奴隷たるもの、集中力がなくてはどうにも成り立たない。いるそうなんですよ、死ぬ間際に、アイロンを消してきたか、家の鍵を閉めてきたか、心配するような見当違いの人。笑い話のようですが、これがまた意外と他人事ではない。わたくしたちは皆、強迫症予備軍です。さぁ、始めましょう」

 御膳の上には、白いろうそくが置いてある。ゆらゆらと揺らめく炎は、脳を炙って、「ブタ」どもの脳をちりちりと焼きつくす。

「目を瞑ってはいけません。ろうそくの炎を、見つめてください。ただ、見つめて……」

 最初は、衣ずれや、咳ばらいが端々から聞こえてくる。落ち着かないのだろう。人間、黙るように作られていない。

 沈黙を怖れる人間だらけのこの世界じゃ、なおさら。

 ただ、少しずつ、変化が表れてくる。十五分もしないうちに、足を崩す人間がいなくなる。息遣いが一体化してくる。無音の中で、きぃぃぃぃぃんん、という音だけが、鼓膜を揺すぶるようになってくる。脳味噌の皺を、なぞるように。意識が、すとんと頭の奥におっこちてくる。

 すうっと。すうっと。すううっと。

 ……。

 ……。

 どうでしょう?

 沈黙が、うるさく感じてはこきませんか。

 目を瞑っていると、色々なことを思い浮かべることができる。音を、想像できる。悪くいえば、ノイズが入る。しかし目を開けて、炎を見つめていると、音はなにもきこえなくなり、脳が映像を思い浮かべるのを阻害する。そうなってくると、いよいよ頭はむき出しの、裸だ。

 おれは言う。優しい声で。詐欺師の声で。聖職者の声で。

「いいですか。それでは、目を瞑りましょう」

 現実に生きていたはずの人々が、躊躇いなく、嘘のように従順に瞼を閉じる。操り人形。そんな言葉が頭を過る。おれは続けた。現実を、彼らから取り除くため。

「あなた方は、社会では一人一人役割を持った人間です。大切な人がいるでしょう。ご両親でしょうか。ご友人? 恋人? しかし、今はそれらのすべて、不必要です。あなたは、不要に成長しすぎた山椒魚などではない。力のないきれいな赤子だ。何かを思い出すことはもう、必要ない。後悔も、懺悔もいらない。ただ、差し出された手を取ってください」

 そうだ。貴方達はもう、おれの掌の上だ。


 ……喜瀬川。

 おれは、白昼夢を見ている。おれが引きこむはずだった世界に、おれがいる。彼らを手のひらに乗せたおれは、喜瀬川の口の中にいる。

 母なる海のような、口内。下の裏のぐちゃぐちゃすら、愛おしいんだ。

 頭の中が、乳白色に染まる。おれの手を引く、喜瀬川。嬉しそうに笑って、未来に恋をしてしまった少女のような、はにかんだ笑顔を浮かべて。おれが世界に咀嚼されて潰れたカエルみたいになっても優しく首を傾けて、口を僅かに開いて、おれの声に耳を澄ませて。

 おれはただ、高慢な女の優しい腕に抱かれて、一緒に死にたいと思ったんだ。

 しみったれた海で。

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