【第7章・野良犬の独り言(未来編)】『起請を一枚、破いておくれ』
朝起きると、ひどく身体がだるかった。
砂袋のような頭を傾げる。電気を点けっぱなしでねむってしまったせいか、頭の芯がぼんやりとする。幻の光虫が、目の中をユラユラと漂って、軌跡を描いていた。
朝方だからか、幾分外が薄暗い。不気味な雰囲気が漂うが、美佐子さんがいなくなっていて、安堵した。やかましく、ギャア、とカラスが一鳴きする。起請を一枚、破いておくれ。
もう一眠りしたところだったが、そうもいかない。
この合宿の朝は早い。朝五時にロビーに集合して、滝行へ行く予定だ。もちろん、きちんとした狙いがある。表向きは、滝行による、「奴隷根性育成プログラム」。
だが、実際は違う。朝早くからの滝行による体力の低下及び、判断の鈍化が狙いである。昨日の解散が一時だから、今起きてきたやつは眠くてたまらんだろう。なにせ、おれも眠たい。
常識や判断能力を剥ぎ、白い頭に「エリカ様」への忠誠心を植え付けるのだ。
着替えをしてロビーに向かうと既に数人、寒さに肩を竦めながらソファに腰かけていた。おれが驚いたのは、彼らの表情だ。
いくら朝が早いとはいえ、目が随分と濁ってはいないか。しかし、ただ濁っているのではない。奥では、冷えた炎が、静かに揺らめいている。爆発寸前の高揚を孕んだ目つきである。昨日、喜瀬川はあの後どういう「ご褒美」を与えたのだろう。
皆さま、一日で随分といい目つきになってきたじゃないの。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
昨日のカップルの片割れの女に話しかける。女は薄化粧で、昨日と寂しい印象だった。
「まぁ……。あの、高野が見当たらないんですけど」
高野と言うのは、昨日の「躾」中に逆らってきた男だ。
「お連れ様ですね。昨日、辞退の連絡をいただきました。お帰りになりましたよ、機嫌を損ねてしまったようです」
おれはあっけらかんと答える。脅して帰したのだと言うことは、無論禁句だ。
「そう、なんだ……」
女は感情なく、ただ事実に対して空白を埋めるように呟いた。
「お連れ様がいないと、不安でしょう? よろしければ、途中辞退も可能ですよ?」
おれだって、鬼じゃない。無理強いはしないさ、奴隷は、無理になるもんじゃない。
しかし、女は緩やかに首を振った。
「ううん。滝行でしょ。結構ああいうツアーってお金かかるじゃん。やってく」
昨日の「アレ」に参加していないからか、彼女はまだ元気そうだ。
「それはよかった。エリカ様も、お喜びになる」
「エリカ、様」
女は呟いた。恋する乙女のような、純粋な息を漏らした。
喜瀬川、お前女にはモテそうだな。
客に目を配りながら集合時間まで過ごしていると、眠い目を擦ってボニ―がフロントにやってきた。特攻服の上から、丈の長いダウンジャケットを羽織っていた。
貴方くらいです、特攻服をインナーに使おうとするのは。
「おはー。ちょっとぉ、朝早くねー?」
「すいません。プログラム目白押しなもので」
彼女はうつらうつらと赤子のように首を揺らし、「行かなくてもいーい?」と言った。
「どうしたんですか?」
「うち、冷え性なんだぁ。滝に打たれた瞬間死ぬと思う。ダイエット中で、へろへろだし」
それは困った。彼女の丸々とした手首を見ると、そうは思えないけれど。
今時の女の子は、少し痩せ過ぎですよね。
「ダイエットなど必要ないのでは」
これは、本音だ。
「だって、痩せてる方がいいじゃん」
「少しふっくらしている方が男性は喜びますよ」
「別に、男に好かれたくて女やってるわけじゃないし。女の子は、痩せるのが好きなの」
「そういうものですか」
「そう。痩せるために生きてるって言っても過言じゃないね」
そりゃあ、きっと過言ですよ。
ま、元よりボニ―を参加させる気もなかったし、断って駄々をこねられるよりは自ら辞退してくれた方が助かる。
「いいですよ。七時半に朝食ですので、それまではごゆっくり」
「助かるわぁ……」
おれはとろとろと歩くボニ―に、優しく手を振った。これはあくまで推測だが、ボニ―はこの状況のただならぬ空気、不気味さをいち早く感じ取ったのではないか。滝に打たれ、「ブタ」どもと同じプログラムをこなすことで、本当に何かが変わってしまう予感をしたのではないか。ボニ―は、賢い少女だ。おれは、つくづくそう思った。
しかし、喜瀬川がこないな。おれは改めて見回すが、やはり姿はない。
「坊や、ちょっと」
美佐子さんがおれを呼んだ。ひとまず喜瀬川のことは置いて、カウンターに向かう。彼女はカウンターでは片肘付いて、頬づえをついていた。
「よくねむれたかい?」
「おかげさまで……」
ふん、よくそんな口が利けるもんだ。おれはお化けが死ぬより怖いんだよ。
美佐子さんは困ったように眉を下げ、こちらの口元を見つめた。
「あのねぇ、悪いけど、滝は中止にしてもらえるかい?」
「どうしてですか? もう準備はできてるのに」
「それがねぇ、今さっき電話があって、途中の道で土砂崩れがあったみたい。通れなくはないみたいだけど、この人数は危ないって」
昨日からの雨のせいだろう。途中で上がったが、手遅れのようだった。
「ふぅん……。お客様に大事があってはいけませんね。中止にしましょうか」
事故があっては、話がややこしく混ぜっかえしてしまう。ただでさえ、美佐子さんのせいで本懐が忘れ去られそうなのに。
皆に中止の旨を告げると、驚くほど従順に各々の部屋に戻っていく。反対をされるのを想定していたので、肩すかしをくらった気分だった。迷ったが、ここからまだ二時間くらいは眠れそうだ。喜瀬川を起こす必要もないだろう。おれも部屋に戻ることにする。
「ねぇ、坊やぁ。ひた」
美佐子さんがおれの肩を掴む。その「ひた」っての、やめてくれませんかね。
「昨日、坊や言ったよねぇ」
「……えー」
一体わたくし、なにを申しましたでしょうか。
「私に成仏して欲しいって。思い残すことはないかって」
なんでそんな低いトーンで言うのよ。もう少しこう、ポップで明るくお願いしますよ。
「えぇ、まぁ。でも、よく考えたら、失礼ですよね。いなくなれということですから」
思わず、早口でまくし立ててしまう。しかし彼女はそれに全く動じる様子もなかった。
「いいんだよぉ。お化けなんて、気味が悪いに決まってらぁね」
「……それで?」
結局、何ですか。
美佐子さんは、細くて青白い人さし指をぴんと立てた。
「一つ、思い出したんだよ。この建物の崩壊以外に、気になっていることが。現世への思い残しっちゃあちょいと小さいがね」
「いい予感はしませんね」
「かもしれないねぇ?」
「……おれ、行きませんよ」
「いやぁーん、私とイこうよぉ♡」
演技がかった猫かぶりをする彼女の口元は冷たくて、水色に光って見えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます