【第6章・ご主人様のお仕置き百番勝負ツアー】『快感としての滅び』

 部屋に戻ると、軽くシャワーを浴び、靴を脱いでベッドに寝転がる。この部屋も、やっぱり全て水色だった。バスタブや、石鹸まで。水色の泡ってのは、随分毒々しいもんだ。

 シャワーを浴びている間も、喜瀬川に対するもやもやとした劣情は溶けることはなかった。彼女の声からは、牝のにおいがプンプンと漂ってくるようだった。掠れた声が、おれの心を柔らかく、荒々しく削り取った。

 ……おれはきょろきょろと部屋を見回し、ティッシュを探した。

 そのとき。

 天井が、みし、みし、と軋む音が聴こえた。おれは身体を緊張させ、音の正体を探る。

 めし、めし。

 頭は一気に冷え、美佐子さんの姿を思い出す。声を思い出す。


        「坊や。そんなに私が怖いのかい?」


 なんだよ、おれは、こんなの認めないぞ。

 そんな考えを遮るように、信じられないことが起きた。

 ――ドシャァァァァァァ。

 こんなことがあっていいのか。

 水色の天井が、濡れた紙袋のように破けた。

 空が、破けてしまったようだ。そこからは、砂埃とともに人間が降ってきた。突然のことに身を凍らせる。呆然としているほか、なにもない。

「……おっす。元気してるかい?」

 落ちてきたのは美佐子さんだった。落ちた衝撃にも動じず涼しげな表情で片手をあげた。

「なんで、そんなとこから?」

「空から落ちてくるのは、美少女って相場が決まってるだろう?」

「えー、何の用ですか?」

 困惑しながら、言葉を探した。

「ちり紙捜してんだろう? あるじゃないの、あんたの枕もとだよぉ」

 おれは言われるまま振りかえる。枕もとのダッシュボードに、行儀よく置いてあった。

「あ、ホントだ……って」

「自家発電なら、手伝おうかい?」

 美佐子さんが妖しく笑った。右手を軽く握って、上下に振って見せる。

 いやん、お下品。それに、手伝ったら自家発電になりませんわ。

 美佐子さんは風呂あがりなのか、濡れた髪をアップにして、浴衣を着ていた。上気した肌が浴衣の襟から露わになり、首筋はほんのり桜色に染まっていた。

「あ、いや……。なんですか、ずっと部屋覗いてたんじゃないでしょうね?」

「まさか。いくらあんたがいい男でも、そんな悪趣味じゃないさ。なに、眠れないから、ちょいと遊びに来たのさ」

「せめて、普通に入ってきてください」

「お化けだからねぇ、次はすうっと壁を抜けてこようかい?」

 それはやめてちょ。

 おれは興が削がれたと、ベッドに横になる。その傍らに、当然とばかりに添い寝するように美佐子さんが横たわった。百合の香り。

 百合の香りは官能の香り。死者の香り、か?

「ねぇ、聞いておくれよぉ。いけずな人だねぇ」

 おれは美佐子さんに背を向け、水色の壁を見つめる。

「坊やはさ、どうしてそう私に冷たいんだい? 喜瀬川にはあんなに……」

「いえいえ、喜瀬川に優しくしてるつもりはありませんよ。仲違してばかりですし」

「でも今、喜瀬川をオカズに」

 どき。

「……当て推量は辞めてください」

 なんで、わかったんだろうか?

「わからないわけないだろう? お化けは頭の中だってよめるのさぁ」

 美佐子さんは弾むような声で言う。上機嫌はいいが、胸をぐいぐい押しつけるのはやめて。オカズ変わっちゃうから。店長の気まぐれでメニュー変わっちゃうから。

「おれの頭に穴でも空いてるんですか?」

 冗談めかして言うと、美佐子さんは声を潜めた。

「おや、『あたま山』ときたかい。空いてても、飛び込んで死んじゃいけないよ」

 つつー。

「ぅ」

 おれの背筋を、美佐子さんが指でなぞる。ゾクゾクするぜ、まったくよぉ。

「坊や、お化けが苦手なんだろう?」

「だからなんなんですか!」

 おれが半ばヒステリックに騒ぐと、美佐子さんは耳元で桃色の吐息で、「祟るよ、そんなぞんざいだと」と仰られた。

「とにかく苦手ですよ。苦手。怖いんですよ、悪いですか」

 理由なんかない。みなさんだって、嫌いな喰いもんに理由なんていちいちないでしょう。

 不味いから嫌いだ、ただそれだけでしょう?

 なんでもトラウマだなんだ言うのは、気に喰わない。嫌いなもんは嫌い。

 おれが、喜瀬川に嫌われているのと同じ。

「悪かないねぇ。男ってのは、弱いから可愛いのさ」

「弱い者いじめして嬉しいですか?」

 美佐子さんはふふと笑い、おれの身体に腕をまわした。ひやりと冷たい。

 ちょうど、豆腐かコンニャクのよう。

「何もいじめに来たんじゃない。ちょっと、話でも聞いてもらおうと思ってねぇ」

「……話?」

「信じても信じなくても、いいけどね」

 彼女の腕をはらい、ベッドの上に胡坐をかいた。話を聞かない限り、まともに寝かせてもらうのは難しそうだ。

「大体、地縛霊ってのは現に思い残しがあるってぇ、大体そういう筋書きだろう?」

 まぁ、そうかもしれないけれど。だからなんだというのだ。

「だんまりかい? お前さんがあんまりうるさいもんだから、私なりに考えてみたんだよ」

「なんですか」

 美佐子さんは指を滑らかに動かし、「坊やに指一本触れず、イかせる方法さ」と妖しく唇を動かした。

「そりゃあどんな淫乱マジックですか」

「坊やの坊やが破裂寸前。ぷふふ」

「真面目に話しないなら寝ますよ」

 すると美佐子さんはおれの腕をとり、胸をぎゅうぎゅうと押しつけ、「うそだよぉ、お堅い人だねぇ」としなをつくった。

「成仏する方法さ。坊やの言う通り、私がここにいるのは変だ」

 彼女は、声を潜めた。

「そうだろう? なにせ、私が一番おかしいと思ってるんだから」

 彼女を成仏させると言うこと。こんなオカルト話、前提としても受け入れたくないが、もしも仮に彼女が地縛霊で、思い残したことを果たせば消え去るとしたら。

 考え方によっちゃあ、それじゃおれが殺そうとしてるもんじゃないか。だって、この世から、彼女を消そうとしているんだから。いないことと、死んでいることの差はなんだ?

「で、思いついたんだ。私が残した、想い残しってやつをねぇ」

「わかったんですか」

「一つだけ、見てみたいものがあるのさ」

 彼女はおれの目をじいっと見つめると、眉をひそめ、唇を少しとがらせた。

「この建物が、なくなるところ」

 もったいぶって言った割には、ひどくリアリティのないことだ。

「ムチャクチャ言わないでください。そんなの、業者に頼んで取り壊してもらうのだって大変ですし、いくらかかるか」

 たしかに、この建物が消えれば彼女も消えるかもしれない。彼女を縛るのが、このリゾートホテルなのだとしたら。

「もちろん、本当にやろうとは思わないさ。ただ、こんな建物が一気に崩れるところなんて、気持ちいいと思わないかい? あはぁーん」

「やめてください、乳寄せるの」

 目の遣り所に困るでしょうが。

「……もし、ここがぶっ壊れたら」

 美佐子さんは言った。

「なんとも言えない、喪失感だろうさ」

 彼女は水に浮いた花弁のように、頬を紅潮させる。そして、甘く蕩けるような声で言った。

「ほろびるってのは、女の快感なんだよ」

「……」

「それにほら、世界がもうじき滅びるって話もあるじゃないか」

 美佐子さんは、おどけて言った。どう相槌を打っていいかわからず、曖昧に頷く。

 鳩目ウロ。変な名前。あの、インチキ野郎め。

 それから、どういう話をしたんだろうか。

 おれはいつの間にか、眠っていた。天井に空いた穴は寂しい空洞で、自らの心を映し出しているようだった。

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