【第6章・ご主人様のお仕置き百番勝負ツアー】『豊かで不幸せな私たち』
喜瀬川が部屋を訪れた。皆、ざわめいた。
おれが皆から集めた携帯電話の入った袋を手渡すと、それをひどくつまらなさそうに見つめた。そして、その中から一つ、取り出した。プリクラが張ってある携帯電話だった。それを見ると、喜瀬川はさらに顔を歪めた。
他人の幸せが、何よりも嫌いなのだ。
喜瀬川は、それを片手に、おもむろにポケットから何かを取り出した。
そして。
「かわいくしてあげるわ」
ぶりゅりゅりゅりゅ。
「あぁ、おいしそう。たまんない」
喜瀬川は恍惚の声をあげる。
……マヨネーズだ。マヨネーズを、携帯にたっぷりとかけた。どうしてだが、その携帯電話は、喜んでいるようにさえ見えた。
おれたちは、それを呆気にとられたまま、ただただ見ていた。そして喜瀬川はそれを嘗めまわした。たまらなく官能的で、なにか、後ろめたい気持ちにさえ、なる。
そして、さらに目を疑った。喜瀬川は携帯電話の頭を齧り、画面に大きくヒビを入れてしまったのだ。
言葉を失った。なるほど、これはたしかに現実の光景としてはいかれている。常識を覆す効果はあるだろう。ただおれの思っていた企みとは、まったく別の方向であるが。
せっかく色々と手順を考えてきたのに。
「おい、いい加減にしろ!」
男の怒鳴り声が、響く。髪を短く刈り込み、耳にピアスをした男。さっきのカップルの片割れだ。あら、あんたのだったのね。
そりゃあ、怒りたくもなるわ。携帯にマヨネーズかけられてかじられちゃあ。
しかし、その正当な怒りを、受け入れるわけにはいかない。ここではただ、喜瀬川だけが正義である。
男に近づき、後ろから背中を叩く。男は振りかえると、こちらを恨みがましく見つめ、額をおれに近づける。
「おい、なんだよこれ。どうしてくれんだよ!」
「なにかと申しますと?」
「俺らただ歌聴きに来ただけだっての!」
男は喚き、座っている他の「ブタ』を見つめ、お前らもそうだろう、と言うような顔をする。誰も、目を合わせようとはしなかった。誰か助けてやんなよ、群衆さんたち。
「……それは違うでしょう? 約束が違います」
おれがのっぺりとした抑揚のない声で言うと、男はたじろいた。
「な、なんだよ」
「わたくし、申しましたでしょう。ご主人様とともに生きていく覚悟、滅びる覚悟がおありの方だけに、集まって欲しいと。これはトレーニングだ。貴方は携帯電話を壊されて怒っている。現実とのパイプを壊されて、焦っている。それでは、困るんです」
「……」
「なにも急に、全てを捨てろとは申しません。こちらから段階を踏むための、補助輪を提供しているのです。自転車に乗る子どもが、そうするように」
男は怒りに震え、言葉が出てこないようだった。
「常識にとらわれているブタは、ただのブタです。あれ、どこかで聞いたことのあるフレーズですね?」
「うるせーんだよ!」
男は言葉を失った挙句ついに逆上し、おれの頬を殴りつけた。傷のある方と、逆の方だ。
頬が痺れ口の中を切ったのか、古びた鉄の味がする。
こりゃあちょっと、よくないね。
「あ……」
男は恐らく、人を殴り慣れていないのだ。狼狽の色を、しょぼしょぼした瞳に浮かべた。
おれは無言で、にっこりと微笑んだ。そして、男の手を取った。彼は抵抗もせずに、なすがままにおれに従った。
喜瀬川、あと頼むわ。
男と二人で、部屋を出た。男はその間中、切れ切れの息を漏らすだけだった。男の手を引き、一階のロビーに向かう階段の踊り場で足を止めた。男を見つめると、彼は震える声で、「そっちが悪いんだぞ」と弱々しく言った。
不良ぶってはいけませんよ、こんなに弱虫の犬なのに。
「はい。そのようで」
おれは男の頬をつねり、再び微笑んで見せた。男は、こちらの目を見ようとはしなかった。おれは喧嘩なんかこれっぽちもできない。殴り合いをしたら負けるかもしれない。ただ、でまかせでこの程度の男に負けるほど腐っちゃいない。
「お戯れを。これで、おあいこにしていただけますか?」
男は醜く笑い、「あ、ああ」と息を漏らしているのか、肯定の返事なのか、どっちつかずの声を吐いた。
「でしたら、二度と姿をあらわさぬよう。帰って荷物をおまとめください。後でわたくしから、彼女さんにはお伝えしておきましょう」
男の頬から手を離す。
「こ、このことを俺が言いふらしたら、お前らもうアイドルなんて続けらんねーぞ!」
おれは片眉をあげ、「えぇ、どうぞご自由に。貴方程度の人間に耳を貸す人がいらっしゃればですがね」と答えた。
男はいよいよ言葉をなくし、無気力にとぼとぼと階段を上っていった。
さて、一人脱落か。
部屋に戻り、仕切り直し。
「すいません、どうやら彼は体調がすぐれないようでして……」
部屋に入り、言いかけて、絶句する。
そこには、さっきとはまた別次元の非現実が広がっていた。
先ほどの「ブタ」どもが、円になっている。ただ、円になっているのではない。ブリッジをした状態で、だ。その腹の上を、喜瀬川が、ゆっくりと、歩いていた。ヒールを喰い込ませるように、わざと。
女はいなくなっていた。逃げ出したのだろうか。いや、多分喜瀬川が帰したんだろう。喜瀬川は、女には比較的優しいからな。
男たちは皆、異様な雰囲気にのまれてか、苦しそうに僅かに息を漏らすだけで、声を出すことはなかった。自分がいない間に、何が起こったのだろう?
奇妙な静謐の中から、男たちの微かな息遣いが聞こえる。それは獣が眠るときの息のひそめきだ。おれは舌を巻いた。
喜瀬川の、手腕にだ。彼らの、従順な瞳にだ。
喜瀬川の声は、中に眠る被支配欲を乱暴に掻き立てる。
貴方達はご主人様に飼いならされ、少しだけ獣に近づいた。ほんの僅か、爪の先程度だが。
空気が、だいぶ薄いような気がする。天井に、熱気による薄い靄がかかっている。部屋は人々の熱で熱くなっているのに、皆、頭の裏側はどこか冷めきっているような感覚。
これは、人の性だ。
おれたちは、争いに慣れてなさすぎる。言葉で看破する技術もない。さきほどの男みたいなチンピラは珍しく、意味もなく従うことに慣れている。正体のわからない行列に疑問なく並ぶ心理なんか、それの典型。
ここにいる人々は皆、豊かで不幸せだ。なにせ、自分が幸せだと思いこんでしまっている。幸せな彼らは、奇跡を望むことを忘れてしまっていたのだ。
ただ、それも今日まで。
現象学的判断停止、か。昨日までの常識を疑うのは、誰にでもできることではない。
だが、ここではたしかに常識という感覚が、薄れ始めていた。
喜瀬川。こいつらに、教えてやってくれよ。「本当の幸せ」のなんたるかを、さ。
「もっと、なきなさい、あぁ、そう。気持ちの悪い声で、啼きなさい」
喜瀬川は、うっとりとした声をあげる。
お前、やればできるじゃん。いつもギャアギャア、カラスみたいに騒ぎ立てているのが嘘のように魅力的だ。もしかしたら、セリフは美佐子さんの仕込かもしれない。喜瀬川のアドリブにしちゃあ、ちょっと出来過ぎだ。
なんだか、おかしな気分になっちまいそうだ。
呆然と立ち尽くしているおれを見て、喜瀬川は「さがりなさい、犬」と言った。
そうそう。おれの役割はここまでだ。あとは、喜瀬川に任せる。ここから、喜瀬川のライブがあって、終了後は、ボニ―に任せて各々を部屋に戻せばいい。
この後の『ご褒美』は、まさしく奇跡だろう。
「……」
おれは特に何も言わず、部屋から出る。
その瞬間肩が重くなり、首の後ろ辺りがひどく張り、鼻の奥がちりちりと熱くなる。脱水に加えて、こんな疲労感は久しぶりだ。あの場の緊張は、なかなかだった。彼女に出せる、最高のものだったのではないか。もう今すぐにでも、部屋に戻って眠りたい。
あとは喜瀬川に任せてさ。
……あ、でもその前に、ちょっとアレしよっかな。自家発電。
ちょっとおかしな気分になっちまったもんで。
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