【第5章・犬も喰わない閃き】『喜瀬川の過去』
夜。おれは、今でも夢の中を泳いでいるような、浮足立った感覚の中にいた。
マーブル色の頭を現実に戻そうとする作業は、思いのほか大変だ。
ステージ後、『ホテル・レミング』に戻り、おれは部屋でただ天井を眺めていた。すると、雄太は両腕いっぱいに缶ビールを抱えて部屋にやってきた。
すでに顔は赤らんでおり、できあがっている様子だった。
「飲もうぜ」
雄太の誘いも、夢の続きのようにしか感じられなかった。
「いや、おれはいいんだって」
「ふぅん」
雄太は曖昧に微笑み、ベッドの端に座る。
「なぁ、知ってるか?」
「……好きに話せよ。喋りに来たんだろ」
促すと、彼は嬉々として話し始めた。
「喜瀬川って、元アイドルなんだぜ」
雄太は缶ビールを口につけ、喉を鳴らす。おれは生唾を飲み、欲求を飲み込む。
その話を聞いて、ひどく合点がいった。今日のステージはいわば昔取った杵柄というわけだ。
「アイドルって……ひとりでやってたのか?」
雄太はビールを煽るように飲み、地べたに寝転がっていた。酒量は大したことないようだが、酒に弱いらしく、呂律が怪しい。
「いや。『のーこん』ってグループ、聞いたことないか?」
「よく憶えてないけど、聞いたことあるかもな」
雄太の話をまとめると、こういうことだ。
十年前。
喜瀬川は、オーディションを勝ち抜いて一四歳でデビューした、当時話題のアイドルユニット『のーこん』の一員だった。
デビュー曲の『恋はツーアウトから』はスマッシュヒット。野球をテーマにしたアイドルで、『わたしの彼はスイッチヒッター』、『いつもインフィールドフライ』など、次々と曲を出すが、人気は竜頭蛇尾、一年もしないうちに飽きられしまい、彼女が高校に入るころには事務所を辞めていたそうだ。
一発屋とはいえ、元全国区のアイドルだ。あの振りつけの様になり方も、納得がいく。
「聞くか?」
雄太はポケットから音楽プレーヤーを取り出し、イヤホンの片方をつけ、もう片方をおれに差し出す。おれは受け取り、耳にはめた。
「喜瀬川がキレ始めたら、これを流すと大人しくなる。黒歴史なんだと」
「そりゃ笑えるな」
焦って雄太を怒鳴りつける喜瀬川が、容易に想像できた。
「じゃ、流すぞ?」
音楽が再生される。
気の抜けたBGMが、おれの鼓膜を震わせた。
雄太は、気持ち良さそうに歌を口ずさむ。
「ほれ、トラも歌えよ」
「歌うも何も知らん」
「ほれ、いいからいいから。『恋はぁ~……♪』」
雄太が調子っぱずれに歌っていると、突如、ドアが開いた。
――がちゃ。
なんだ、ノックなしとはずいぶん失礼だな。
「……なに? あんた、本当におホモだちだったの?」
喜瀬川。彼女の眼には、男二人が仲睦まじく一つのイヤホンで音楽を聞きながら、大合唱。そんな風に、見えたのだろう。
一つだけ誤解だ。おれは、全く口ずさんでいない。
「そうそう」
雄太は満足げに頷く。それに虚をつかれたのか、彼女はあたふたと視線を宙に巡らせた。
「……あんまり、詳しくないけど……その……よく、ほぐしなさいな。穴という穴を」
喜瀬川、照れてる?
おれは雄太を睨む。雄太は、おれの背中をくすぐるように触った。
あぁん。
「……『ぢ』は怖いわよ」
「ちがうんだって」
「ちがわないわ。『ぢ』は……」
「……」
ゲラゲラと笑い転げて涙を流している雄太を後目に、おれは部屋を出た。
部屋を出たおれを、喜瀬川が追いかけてきた。ホテルの廊下はひやりと寒く、吐く息も白い。彼女は壁に後頭部を預け、顎をあげて見下すように喋る。
「あんたに、言いたいことがあって」
喜瀬川は言った。
「あのね。今日みたいな余計なことは、二度としないで頂戴」
「そうだな、確かに言いすぎた。心中どうのこうのは……」
その場の勢い、場を盛り上げるためとはいえ、あの話運びはやりすぎだったな。
おれは今でも信じてなどいないが、少なくとも彼女にとって愛する男との心中は、本気のようであるし。
彼女は自嘲気味に笑い、こう言う。
「それは別に構わないわ。あんなの、観客はショーの一部としか考えないでしょ。むしろ、相手が見つかるならこっちからお願いしたいくらいよ。まぁまぁカッコイイのもいたもの」
「お前は心中の相手が、まぁまぁカッコイイ程度でいいのかよ」
彼女は大げさに頭を左右に振り、手のひらで顔を覆う。
「違うわ、言いたかったのは、こんなことじゃなくて」
「なんだよ、小言なら聞きたくないぞ」
「……あたしにもわからないけど。脳はあんたに余計なことをするなと言いたい」
「ま、次にはみるくが上がらなきゃいけないからな」
わざとはぐらかすように正論を言う。
本当は、みるくなんてどうだっていい。おれは、お前のステージが見たいんだ。
「あのね」
彼女は言った。
「今日みたいなのはごめんだと言いたいのに、身体はそうじゃないみたいなのよ」
彼女は、重たい言葉を絞り出した。
「なんだよ、身体が火照ってるのか」
おれは冗談めかして言うが、彼女の表情はあくまで真剣だった。
「あたしは、求めている。あのステージを」
どう答えていいかわからず、彼女に背を向けた。興奮を抑えきれず、湧き出る得体のしれない感情にわなわなと震えてすらいた。
「……お前は、どうしたいんだ?」
尋ねると、喜瀬川はこちらを見ようともせず、「わからないわ」とだけ呟いた。
なるほど。お前は戸惑っている。自分の中に芽生えた、悦びに。
その日は、そうして曖昧に終わった。昨日と今日の境目がわからなくなりそうだ。
今日だけは、ずっと喜瀬川のことを考えていた。
犬がずっと、自分の尻尾を追いかけているのと変わらない。
そう、ずっとだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます