【第5章・犬も喰わない閃き】『口べたな犬』
後日。雨が降っていた。そのうえ気温は低く、身体の節に堪えるような日だった。
おれは社長をライブハウスの『ヤマアラシ』に送り届けた。社長とは、あまり話をしなかった。社長は掠れたいびきをたてて、眠っていた。
油断ならない。狸寝入りかもしれない。
送り届けた帰り、ボニ―に声をかけられた。今日は夕方までで、この後は暇なのだと言う。
喫茶店に入る気分にもならず、おれたちは、だだっ広い裏道の端に車を止め、話をすることにした。ボニ―は、「お金ないからちょうどいいべ」と笑った。
おれだって金はないさ。人間の尺度、価値を測る、あの紙きれを。
話は自然と、この間の喜瀬川の出たライブの話になった。ボニ―はタバコを吸い始めた。社長の車だからやめてくれと言ったが、彼女は「いーの」と呆けた声で言った。
おれはそれ以上何も言わなかった。彼女はダッシュボードに脚を預け、尊大な態度をとる。太い脚に比べ、細い足首をしていた。
「トラちゃん、こないだすごかったじゃん。演説上手のなんとかXみたい」
彼女は視線でタバコの煙を愛でた。目を細めて、清らかな聖女のように。
「褒めすぎですよ。おれはね、ガキの時分からすごく口べたで」
ボニ―は意外そうに目を見開き、人懐っこくおれを上目遣いで見つめた。
「うそ。マジ? ウチもちょーいじめられっ子だったんだよね」
今の彼女の図々しい態度からは、その背景を推しはかることは出来なかった。
「かわいかったし、双子だから気持ち悪いって」
「へぇそうなんですか」
「ま、嘘なんだけどね。ギャハハ」
彼女は口を扁平に広げ、笑いかけた。
一体どこまでが嘘なんだろう。読めないやつだ。
「で、どうしたらその口べたが治ったん?」
そうそう、そんな話。自分語りは嫌いじゃない。おれってば、ナルキッソス。
「話せば長くなりますがね……」
「短くしてよ、ウチながいはなしきらーい」
短く簡潔に話すのは苦手だ。簡単な話を伸ばすのは得意だけれど。
「おれはこう見えても、教師の息子でしてね」
「うそ」
「そこは信じていただかないと」
「んでんで?」
ボニ―は携帯吸殻に、タバコをグリグリと押しつけ、丁寧に火を消す。
「で、なんだかんだあって、タクシーの運転手になったわけです」
「なんだかんだすぎてわっかんねー」
「ま、ま、ま」
オーバーにリアクションを取る彼女を手で制して、話を続けた。
「おれはボンボンで、バイトの一つもまともにしたことがない、内気で世間知らずなおぼっちゃんだったんです。不安だったんですが、接客の研修がありましてそれで大分治りましたね。ただうちの会社は、問題だらけでして。普通のタクシーの会社とは、教育方法が全く違っていました。常軌を逸していた」
昔のおれは、人前で喋ることはおろか、平凡な友達づきあいさえ、まともにできる人間じゃなかった。みんなみたいに、器用に物を考えられなかった。ただ毎日粘着質な日々を、はいずりまわって過ごしていた。本を読むことだけが、心の痛みを和らげた。世界は静かで、誰もおれに手を差し伸べず、おれもSOSを叫ばなかった。
「そんな簡単に治んのかな、口べたって」
今だって、きっと根っこの方は数年前と何ら変わらない。
口下手な野良犬だ。
ただ、変わらなくちゃいけなかった。みじめでも、生きていたかったのだ。
「今考えれば、マインドコントロールですね、ありゃあ」
「ウチ、そういう話好き。イカガワシイ話ならウェルカム」
なら結構。おれは、話し始めた。
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