【第5章・犬も喰わない閃き】『あたま山に落ちる犬』

「……ある若い男の頭には、大きな穴が開いておりました。そこにはたっぷりなみなみ、水がたまっていて、男の脳味噌と混ざってこれがまたうまいのなんのの絶妙のバランス、活きのいい各国の魚どもがそれはもうぴちぴちと泳ぎ、金髪の海賊シェフもクリビツテンギョーの池が形成されていたのです。日頃我が家で虐げられ、愛する妻や娘からも粗大ごみ扱いされている釣り好きのパパ様どもに、その噂が広まったのであります。男どもが釣竿片手に、池を求め押し合いへしあい、若い男はもう寝る間もなく、ノイローゼになってしまった。そんな日々が続いたある日、男はついに自ら命を経ってしまったのであります。自らの、頭に飛び込んで……」

 これは有名な落語の噺『あたま山』。の、ちょっと改変版。

 ぽかん。ぽかーん。で、これが客の反応。世知辛い。

 おれもある意味接客業の出身でありながら、こういった舞台の上で講釈垂れやがれ、なんて体験は初めてである。ステージからは、思った以上に全体が見回せて、一番はしっこのロン毛のにーちゃんがスマホをいじっているのまで、はっきり見える。前列の客は御親切なことに、おれの話に傾聴して、口をポカンと開けている。

「っつう、夢を見たんですがね。フロイト先生も腰を抜かし、夢判断かたなしって……」

 お茶を濁すように言葉を連ねる。

 その言葉をダン、ダンと、ハイヒールが舞台を叩く音が遮る。舞台袖では、小さなホワイトボードを持った喜瀬川が、もどかしそうにボード上の文字を指さす。

『もっとうまいことやりなさいな!』

 いや、きっとおれの話し方が下手なだけで、本当は面白い噺なんだけどな。

 だいたい、元はと言えばお前のせいでこうなったんだ。

 みるくがこなかった謝罪をするべくステージに上がった喜瀬川であったが、待たされて露骨に荒れている客を目の前にすると、困窮した挙句、早口で、「それではまず、前座の小噺をどうぞ」と残し、舞台を去っていった。そして舞台袖にいたおれの背中を押し、舞台に押し上げた。

 そうだ。お前が小噺をと言うからしたまでだ。おれは訳のわからないまま話を始めることにしたのだが、この模様。もう少しばかり、わかりやすい話が良かったか。

「えー、じゃあ、さらに小噺を一つ……」

 ――いや。おれはいいかけて、あることを思いつく。そーだ。

 うはは、ナイスアイデア。エウレーカ。

 おれは、小さなイタズラを閃いたのだ。

 しかも、おれが楽しみつつ、この状況を打開する方法。

 にこやかな笑みを浮かべ、客席全体を嘗めるように見つめる。

「先ほどは大変失礼をいたしました。ですがご安心ください。ここでいよいよわが社の最終兵器『みるく姫』の登場でございます。みなさん、盛大な拍手をいただけますでしょうか」

 おれが煽ると、客席からはまばらに手を叩く音が聴こえた。おれが更に手を叩いてみせると、少しずつ音は加速した。

 ――まだここに入って二週間ばかりだが、おれは喜瀬川に対して小さな復讐心が働いていた。散々言いたい放題言われ、扱われ。

 少し、恥をかいてもらおうじゃないか。

 涼しい顔で舞台を降りると、喜瀬川は語気荒く、「どうすんのよ! まだ来てないわよ!」と、当然の抗議。お熱くなっている喜瀬川の肩をぽんぽんと叩く。

「なによ?」

「さ、みるく姫」

 茶化すように促すと、喜瀬川は激しくいきり立つ。

「馬鹿言わないでよ、あたしにそんなの……」

「いいじゃないか、客はみるくの顔さえ知らないんだ」

「そういう問題じゃないわ!」

「じゃあなんだ、おれが女装してあがればいいか?」

 おれが言うと、喜瀬川は眉をめいいっぱい歪め、口惜しそうに歯を食いしばった。

「……あんたって本当に性格悪い!」

 舞台からは、大きな拍手が聴こえる。

 これを無視することは出来ないだろう?

 彼女は最後まで悪態をつきながら、舞台に上がっていく。トレンチコートを着たアイドルってのも、何気に新鮮でいいじゃないか。彼女が舞台に上がると、バンドのメンバーが怪訝そうな顔をする。それを無視して、喜瀬川は唇を噛み、「お願い」と呟いた。

 ――しかし、おれはこの後予想外のものを見ることになった。

 ただ、少し困らせてやろうと思っただけだったのだが。

 ドラマー放つ乾いたスティックの音が、ステージの幕開けを告げた。激しいバンドサウンドの中、喜瀬川は舞うようにステージを闊歩し、歌う。トレンチコートは羽根のようにたなびき、耳を刺すようなアンプの音に負けないくらい、存在感のあるボーカル。おれの驚きは増すばかりだ。慣れたステージ捌き。艶があるが、声は決してクールではなく、どこかファニーで癖のある歌声だった。歌唱力という点では、さして優れているとは思えない。脳味噌を、素手でくすぐられているようなのだ。

 ヘソのにおいを嗅いでいるよう。そういう、癖になる歌声とでもいうべきか。

 客は自然と、手拍子もせず、両腕をだらりと垂らし、呆けたように彼女の動きを網膜に焼きつけようとしていた。

 喜瀬川のその姿は、醜く柔らかい背中の上をハイヒールで踏み歩く女王のようだった。彼女の汗はただ、美しかった。

 恥をかいたのは、おれの方だ。

 息をつく間もなく、ステージは終わった。エフェクターの余韻が、目覚めろと騒ぎ立てているようだった。場がシンとすると、今度は観客がわき上がった。大きな拍手、賛美。

 奇跡。

 喜瀬川はそれを面白くもなんともないというように、受け止めていた。ただ、呆然としているようにも見えた。彼女はたどたどしく、ヒールを激しく鳴らし、舞台から降りる。アンコールを望む声が、途切れることなく続いた。舞台袖で、狂ったように騒ぐ観衆に、彼女はぽつりと「……欲しがりね、ブタども」とこぼす。

 彼女の中で何か、扉が開いてしまったようだ。客は帰る気配もなくコールを続けていた。

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