【第5章・犬も喰わない閃き】『ゆとりとさとり』

 そして、一週間後。

「遅いわ! 遅い!」

 おれたちは、ライブハウス『ヤマアラシ』の控室にいた。薄汚れて隅に埃のたまった、よどんだ部屋だ。

 姿見の前を、喜瀬川はハイヒールを鳴らし、右往左往する。カツカツと音がするたび、彼女は自分自身の立てる音に追いつめられていくようだった。

 喜瀬川が折りかえすたび、ベージュのトレンチコートの裾がふわりと舞った。おれはあくびをかみ殺し、そんな彼女を茫漠とした気持ちで眺めていた。背にもたれるたび、パイプ椅子が卑猥にぎいと鳴った。

「あー、もう、遅い!」

「騒いだって仕方ないだろ」

 ヒステリックにわめく喜瀬川に、小さく呟く。すると、喜瀬川は刺し殺さんばかりにおれを睨み、「……殺したいほどムカつくけど、それどこじゃないわ」と零した。

 喜瀬川は視線を逸らし、腕時計を見ながら奥歯をギリと噛む。

「どうしてこないのよ!」

 開演前だと言うのに、みるくが現れないのだ。開演は二〇時で、今はその三十分前。客もまばらだが、入り始めている。このライブハウス自体の常連と、みるくの知り合い、ボニ―や他のライブハウスの従業員の友人などで占められている。

 全員で、おそらく二十か三十人程度。

 無理やり集めたのに、本人がこないという体たらく。喜瀬川が焦るのも、無理はない。

「もう、おしまいだわ」

 彼女は脂汗を額に浮かべ、悲壮感たっぷりに呟く。

「連絡つかないのか?」

「携帯は通じるけど、出ないわ。メールも何十回送っても、反応なし」

「寝てるわけないよな」

「この時間に寝てるなんて、ありえない」

 どちらにせよ、この時間に家にいるようじゃライブには間に合わない。喜瀬川はケータイをソファに投げ捨て、こちらにつかつかと歩いてくる。そして、目の前で仁王立ち。

 ヒステリー女に見下ろされるのは、屈辱的で快感だ。

「あんたが迎えに行かないのが悪いのよ!」

 喜瀬川はイガイガとした感情をぶつけてくる。

 自分でも、八つ当たりだってのはわかってんだろ?

「お前が、みるくの言う通りにしろって言ったんだろ」

 おれは、乾いた声で言った。

 そうなのだ。毎日みるくの送り迎えをしていたが、彼女は、ライブ当日の送り迎えを拒んだ。その理由を、みるくは「一人で電車に乗って、落ち着きたいんで」と言っていた。一理あるだろうと思った。おれと車で二人きりだと、色々困るのだろう。

 喜瀬川は、そのみるくの意思を尊重しろと言ったのだ。

「ちょっと、探してくるわ!」

 喜瀬川は居ても立っても居られないのだろう。荒っぽく扉を閉め部屋を出ていった。入れ違いに、部屋にボニ―がやってきた。彼女は軽薄な笑みを浮かべ、おれに近寄ってくる。

「ちょーす、トラちゃん」

「こんにちは、ボニ―ちゃん」

 ボニ―はラックに吊るされたみるくの衣装を、ジロジロと眺めた。フリルのついた、薄いピンクのドレス。彼女の着ている特攻服とは、まるで別の世界の服だった。

「セーソでカレンでかわいらしいねぇ。ウチにはこういうの、無理っぽいけど」

「いえいえ、ボニ―ちゃんだって、綺麗なお洋服でも着れば結構見れると思いますけどね」

 サイズが合えば、ね。

「やだなぁ、こんな服着てウチみたいな淫乱お嬢ちゃんじゃ詐欺じゃん」

「男は騙されたときに、腹の底からの快感を覚えるもんです」

 おれが言うとボニ―は真顔で、「男ってかわいいんだね」と言った。そして、部屋を見回して、「なんか喜瀬川さん、ピリピリしてなかった?」と低いトーンで言った。

「こないそうです」

「え、女の子の日?」

 ボニーははきょとんとした様子で言った。おぅ、それ逆セクハラ。

「じゃ、なくて。みるくが」

「え、マジ? 昼くらいかな、このへんでー、見かけたけど」

「……ホントですか?」

「うん。ドーナツ屋で手に文字書いて飲み込んでた。ドーナツ喰わずに文字喰っててちょーウケるとか思って……」

 そのとき、喜瀬川が慌ただしく部屋に戻ってきた。

「その話、本当?」

 息を切らし、肩を上下させている喜瀬川。この様子だと、みるくは見つからなかったようだ。

「んー、ホント。ライブの準備しに来てんだと思ったんだけど……」

 時計は開始十分前を指していた。

「……もおぉぉぉ! またぁぁぁ?」

 喜瀬川は、喉が擦り切れそうな声をあげた。

 またっていうことは、常習犯ということか。

「もー、どうしたらいいのよ!」

 おれがどう言っていいかわからず黙り込んでいると、ボニ―がぼそっとこう言った。

「もしかして、逃げたんじゃね?」

 ボニーが言った。

 ……それはねぇ、みんな思ってたけど、言わないようにしてたやつなのよ。

「わぁってるわよ、このゆとり世代が!」

 喜瀬川は今日一番の大声で怒鳴る。不器用でひび割れた叫び。目元には、うっすらと涙さえ浮かんでいる。どうやら精神的に追いつめられると、涙が滲んでしまうたちのようだ。

「うちの世代はさとり世代っつうらしいよ」

「どうでもいいから! すました顔して、結局追い込まれたら根を上げるガキに変わりないでしょうが!!」

「そんなババ臭いこと言わないでよぉ、喜瀬川さんもそんな変わらないでしょ」

「っさいのよこの××××××!」

 おっと、それは放送が出来ない卑猥な罵詈雑言。

「あのー」

「なによ!」

「……喧嘩してる場合じゃないんじゃないですかね?」

 恐る恐る言うと、二人はぴたりと口論を辞めた。

 おぉ、たまにはおれの言うことを聞いてくれますか。

「あたし、ステージ行って謝ってくるわ」

 喜瀬川は、袖で乱暴に目元を拭った。

 こんなことで泣いてるのかよ、女の涙のワゴンセール状態。

「こんなゆとりヤンキーと話してても、仕方ないものね」

 喜瀬川は斜め下を向いたまま、部屋を去っていった。

「だからぁ……」

「ま、ボニーちゃん。ここは、抑えてあげて」

 おれは、追いかけて反論しようとするボニーの肩を掴み、にこりと笑いかける。

 詐欺師スマイル。

 さて、どうなるか、ちょっと面白くなってきたかな。

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