【第4章・野良犬VSメフィストフェレス】『理性ジャック』
車内。おれはみるくを助手席に乗せ、車を走らせていた。桃の香りのシャンプーが、静かに香った。信号待ちをしながら、おれはぼんやり何を話すか考えていた。みるくの家は『ホテル・レミング』から車で三十分ほどの、住宅街のアパートらしい。
「なぁ、こんな話知ってるか?」
喜瀬川ではないけれど、おれも沈黙が得意な方ではない。黙りこくっているみるくに、明るい声を作って話しかける。まったく、まるで詐欺師みたいだな。
「はい?」
彼女も少しは打ち解けてくれたかと思ったが、元のおどおどとした様子に戻ってしまった。シャワー浴びて、気持ちがリセットしちまったか。
「人がいない森で木が倒れたら、音がすると思うか?」
尋ねると、彼女は質問の意図がわからないようで、しばらく黙り「え……?」と困惑の色を見せる。
「そんな真剣に考えなくていい。適当でいいよ」
「そりゃあ、するんじゃないですか?」
彼女はおずおずと言う。間違いを、怖れるように。質問を間違えたかな。
「違う。いや、正確にいえば、違わないかもしれないけどな」
「?」
「おれの知っている正解でいえば、音はしないんだ」
言うと、みるくは少しだが興味深そうにこちらの喉のあたりを見つめる。
いい客だね、霊媒師やってるときに会いたかったぜ。
「どうしてだと思う?」
みるくは慎重に言葉を選ぶように、右の頬を撫でた。
「木が腐っていて、ゆっくり折れていったから……とか」
「いや。正解は、そこに人間がいなかったからだ」
信号が変わると、おれはアクセルを踏み、左足を浮かせていく。走り始め、ローからセカンド、サード、とギアをシフトしていくのは、人間が歯を磨き、排泄をすることで、朝目覚めてからゆっくり覚醒していくのに似ていると思った。
「どういうことですか?」
ここからは、ちょっとした講釈。ま、本の受け売りってやつ。
「音がするってのは、人間の感覚でしかない。これはあくまで例えばだけどな、人間が、木が倒れた空気の振動を感じ取って『バタン』と知覚するかわりに、犬はその振動を『まぶしい』と感じるのかもしれない」
「犬が?」
「別に、犬ってのはたとえだよ。何でもいい。猿でも羊でも蛇でもクマでもヤマアラシでもレミングでも、宇宙人でも。なんだって、いいんだよ。とにかく、木が倒れて『バタン』は人間の感覚で、人間がいなかったら、そこでは音がしなかったことに」
「なるんですか?」
みるくが話の先を急ぎ、付け足す。
「さぁ。そういう話があるってだけだよ。ちょっとした、小噺みたいなもんだ」
ジョージ・バークリーが提唱した哲学の古典的で有名な命題だが、知らない人間も少なくはない。大抵の場合、何かを齧ってみる、ということさえ人々はしようとはしないのだ。おれだって、哲学のことなんて、よくは知らない。
あくまで、こういったときのための、話の種の一つとしか捉えていないのだ。
「だけどさ、これはその木がどうとか、音がどうとか、そういう次元の話を越えているんだ。思いこみ、経験はもちろん、体調が悪いだけでも、いつもとは違う感覚になる」
「……なるほど」
みるくは、小さく相槌を打つ。
「そう考えると、楽じゃないか?」
おれは誤魔化すように言う。ちょっとした話をするつもりだったのに、思った以上に説明的になっちまったからだろうか。
「人間なんていい加減だ。誰を好きとか嫌いとか、風向き一つで変わっちまう。垢がでて、毛が抜けるたび、人間なんて生れ変わっているみたいなもんだ。死んで、生き返ってを繰りかえして、恒常性を保っているようで実際はまるで別の個体なんだ」
「……もしかして、励ましてくれてるんですか?」
みるくは大きな目をもっと開いて、おれを見た。吸い込まれそうだった。遠い、未来の世界の人間みたいだ。
「励ます?」
「私が、朝からずっと怒られてたから」
「そうか? 喜瀬川はおれに怒ってたんだろ」
「さっきのって、気にするな、明日から頑張れってことですか?」
「まさか」
おれは笑った。おれはそんな優しい人間じゃない。損得で全てを考えることもしないが、損得を無視して行動することも出来ない。励ますなんて、無意味だ。
「おれはただの運転手だ」
「関係ないじゃないですか」
みるくは不満そうに口を尖らす。
「……もっと楽しい話をしよう」
おれは無理しておどけているのだろうか。どうにも、余計なことを喋りすぎる。
「愛の話でもするか」
「なんですか、いきなり」
彼女は笑っているような、呆れているような、中途半端に口元を緩ませた顔をした。
「人間ってのはすごいもんで、相手の顔を見て、『愛』が確認できるんだ」
「顔を見ただけじゃわからないですよ」
「そうでもないさ。自分を好いてるかどうかくらいはわかる」
おれの口から愛ってのは、ちょっと不釣り合いかね。
「愛。人間ってのは、温かい生き物じゃないか。下半身丸出しだって、相手のことを思い遣ろうって、殊勝な心がけさ。逆にいえば、蟹の身をほじりながらスケベなことを考えることもできる。本能を、バラバラにジャックできる。これは、人間最大の『理性』さ」
「……理性?」
「そうだ。理性。社会性を手にして、情動や本能さえ支配する力だ。素っ裸で寝てて、火事になったとするだろ? そんときにパンツを穿こうって思うのは、人間だけだ」
しばらく短く相槌を打つだけだった彼女だったが、突如頬を緩ませ、笑い始めた。
よし、それは頬を釣り上げるだけじゃなくて、ちゃんと笑えている。
「話長くないか? なにせ、道が混んでいる」
おれははぐらかすように言う。おかしなもんで、反応が鈍かったときは饒舌だったのに、褒められるとこれだ。おれってば照れ屋さん。
「いえ、もっと続けてください」
「そうか」
「ええ、バカみたいで」
……バカがみる、豚のケツ。
金髪女のケツを追いかけてきたら、なんだかおかしな世界に迷い込んじまったみたいですよ。
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