【第4章・野良犬VSメフィストフェレス】『無名アイドルのビラ配り一部始終』
翌日。寒さはさらに厳しくなり、人は肩を竦めて先を急ぐ。
「あの……ライブ……やります……」
気弱そうな少女・みるくは、地面に向かって微かな言葉を落とした。隣に立っているのに、その声はギリギリ届く程度だった。小さな身体をさらに縮こまらせ、瞳はきょろきょろと落ち着きがない。サンタクロースの衣装から覗かせた膝小僧を、もじもじとすりよせる姿は、悲壮感に満ちていた。
彼女は二十歳くらいだろうが、一人で外出できるのかと言うくらいの人見知りらしい。
お、親近感。
大宮駅前。ビラを抱えたみるくは、細い声でそれを通行人に差し出す。
昼前で込み合っているのもあってか、ほとんどの人間はそれを迷惑そうに一瞥し、残りの人間はそれを空気のように扱った。
傍らに立っている喜瀬川は、呆れたような怒ったような神経質な感情を、どうにか抑え込もうとしていた。そして、マヨネーズのボトルを咥えた。また吸ってんのか。
「あの……『ヤマアラシ』……」
そうだ。ライブハウスの名前はヤマアラシだ。お前は正しいことを言っている。
でもその声じゃ、誰にも届かない。
「あぁ、もう。そんな声じゃ誰も受け取るわけないでしょ」
喜瀬川は限界のようだ。
みるくの、緩くパーマのかかった栗色の髪のてっぺんに怒声を浴びせる。みるくは身体を強張らせ、その拍子にチラシを落としてしまった。ばらばらと寂しく、ビラが撒き散らかされる。みるくは、黙ってそれを拾い始めた。通行人は少し気の毒そうな視線を向けるが、誰も手伝おうとはしない。
おれはしゃがみ込んで、それを手伝う。喜瀬川は、動こうともしない。ただ、わずかだか心配そうな色が瞳に浮かんでいる。おれは、みるくに話しかけた。
「この状況を嘆くことはないぞ」
「はい?」
みるくは話しかけられたことに驚いたのか、上ずった声をあげる。彼女は車内でも、おれの言葉に応えようとしなかった。やっぱ、嫌われているのか。
若い子とのコミュニケーションは難しいことで。
「誰も手伝おうとしない、薄情な世の中。そう思うか?」
みるくは、唇を噛む。
「いいか、世の中には、リンゲルマン効果っつうのがある」
「リン……?」
「カタカナ出して、話をケムに巻こうとしているでしょ。そういうの、嫌いだわ」
喜瀬川の厳しい突っ込み。あぁ、お厳しい。どういうのならお好きなのやら。
でも、そうでしょ。頭の悪いやつほど、こういうカタカナに吸い寄せられるもんだ。
「って、なんですか?」
みるくは、こちらの目をおずおずと見つめる。そして、すぐに逸らしてしまった。
潤んだ瞳は、小動物を想起させる。
「いい子だ。いいか、簡単にいやぁ、『自分以外の誰かがやるだろう』ってことだ」
「……はぁ」
「街中で叫び声が聞こえても、我先に助けに行こうっつうやつはそういない。そうだろ」
「は、まぁ」
みるくは頷いた。あぁ、こいつはなんて無防備なんだ。
もしおれが嘘を言っていたら、どうするんだ?
「だけど、『助けられるのはおれしかいない』つうシチュエーションなら、意外と世の中そう捨てたもんじゃない。自分しか手を差し伸べられる人間がいなければ、助けに行こうと奮起する」
「はぁ」
「……こともある。要は個人が薄情なんじゃなくて、群衆心理が悪いのさ」
「な、なるほど」
曖昧に頷くみるくに、喜瀬川は呆れたように言う。
「こんな詐欺師の言うこと聞いちゃダメよ。テキトー並べて、罪のない人々を引っ掛けてきたのよ」
「罪のない人々? おれは少なくとも見たことないけどな」
喜瀬川はふん、と鼻を鳴らした。
「リンゲルマンなんつうカタカナが出たついでに、おれの提案を受け入れてみないか。ビラを配るだけなら、簡単だぞ」
一体何がついでなのかと聞かれたら困る。いいんだ、雰囲気で。
「ど、どうすればいいんですか?」
みるくは、こちらの言葉に耳を傾ける。なるほど、こいつはよくない。詐欺師から絶対守ってやんなきゃいつか騙される。おれが言うんだから、間違いないさ。
「そうだな……あそこの男」
駅前のエスカレーターの脇で、ケータイを使っている若い男を指さす。
「あいつに、プロポーズをしてこい」
「は?」
みるくは、素っ頓狂な声を出した。
「セリフも、おれが考えてやる。いいか……」
「い、いやですよそんなの!」
みるくは、大声で言葉を遮った。喜瀬川はその声に驚き、目を丸くした。
「ま、でもそんくらいの声が出れば、いつか貰ってくれるさ。あとは、もう少し笑え」
「こ、こうですか」
彼女は頬を釣り上げて見せた。笑ったとは言えない。頬を釣り上げた、が相応しい。
「もうちょっと柔らかく頼むよ」
「へ、へへ」
うーん、目頭がヒクヒクしてて怖い。それを可愛いと言うのは、ちょいとマニアック。
「しかし、お前素直だな。どっかの誰かと違って」
喜瀬川の方を見はしなかったが、さすがに伝わるだろう。
「あんたって、ほんと嫌なやつ。しかも結局、さっきのカタカナ何の役にも立ってないし」
ガシ。喜瀬川は高く脚をあげ、おれの腰のあたりにミドルキックを繰り出す。
ブーツで人を蹴るな。
「あ、あのー、おねがいします」
みるくは、再びビラ配りを始める。なるほど、さっきよりは声が出ている。
「……ホントに、うまくいくんでしょうね」
喜瀬川は声を潜め、耳打ちをする。
「そんな簡単にうまくいったら苦労しないだろ」
ここでうまくいけば、そりゃあそれに越したことはない。ただ、自分が変われば周りが応えてくれるなんて、幻想だ。
人間は薄情ではないかもしれないが、特に優しくもない。
「……」
喜瀬川は、珍しく言葉に詰まったようだ。うん、だまってりゃいい女だ。
「いいだろ。結果はどうあれ、少なくとも声出してりゃ少し気が楽になるさ」
「もっとちゃんとアドバイスしてやんないさいよ」
「何言ってんだ。おれは運転手だ。運転するのが、仕事なんだよ」
そのあと一時間ほど続けたが、だれもビラを貰っていく気配はない。そんなもんだ。
おれたちは、ホテルに引きかえすことになった。みるくは背を丸め、重苦しい溜め息を何回も吐きだした。
ため息をつくと幸せが逃げるなんて、本当かね?
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